予感の手触り

感想の掃き溜め

会田誠「天才でごめんなさい」@森美術館


だいぶ前の話だけれど、1/15-16と東京で研修だったので、その前の三連休初日に上京して掲題の展示を見てきました。
結論から言えばすごかった!詳細は以下に綴るが、僕として従来の日本文化と現代のそれは(当然ながら)接続していると示す意図がよく伝わって面白かった。
そして現代日本は「表層で生きること」が主軸で、そこから抜け出して「個別具体的な存在を承認すること」を伝えたいのかな、と僕は解釈した。
また、村上隆の著作にどこかで「訓練を積めば絵画から作者の心情がありありと想像できるようになる」という趣旨の文章に感化され、作品から会田誠の心の動きを類推する第一歩の試みとしての面白さもあった。

以上、僕が感じた二つの面白さ(作品の文脈解釈および筆致の解釈)から構成して詳述しましょう。



1.文脈解釈の面白さ

まず大枠を伝えてしまうと、僕がこの展示から抽出したメッセージは*1

旧来の日本文化と現在のそれはグロテスクな「奇形」を愛でる点で接続している。そして現代日本文化ではかわいさ、きれいさなどの「表層」が増幅され消費されている(それは究極的には性欲の変換物)。
しかし僕はより個別具体的な「実物そのもの」「構成単位そのもの」「経験そのもの」によって生を構成しなければならない。

ということだ。以下、これを分解して説明する(実はもうすでに記事書くのが面倒になってきている。


(1)日本文化の接続点「奇形」

四肢を切断された少女が犬のように飼いならされている「犬」シリーズのうち「花」。
ほか(雪月花をモチーフに)「雪」「月」、そして「野分」等と続く。

少女の顔からは四肢を切られ「奇形」となった憂いは全く感じられず、むしろ自身が「奇形」であることに気づいていないように見える。
おそらくそれは生まれた瞬間から本来備えているはずの「手足」を奪われたために、「五体満足」の基準が一般人と大きく異なっているからだろう。
これは「卓越性」や「均衡」などを賞賛している(ようにみえる)昔ながらのヨーロッパ文化とは逆の価値観だと思う。
この日本文化の特徴が端的に現されているのが「愛ちゃん盆栽」シリーズ。



この作品は単純にキモチワルイけど実際巷のジジイどもが現を抜かしている「盆栽」などというものはワンゲル部の僕からすれば
本来直立して健やかに育つ植物をあえて「奇形」に育て上げている点でキモチワルイ次元は同じだ。

今の日本では、AKBの「恋愛禁止」ルールのように「本来ヒトとして持つべきもの」(=感情)を抑えられ、商品として表層的なかわいさ、きれいさetcを
消費される「奇形」アイドルのなんと多いこと。
僕もその文化に毒されている一人ではあるけれど、その潮流が尚続いているのは「表層的かわいさ」の根源には性欲があるのかもしれない、と思う。
それでは、過去から人間には性欲が必ず備わっているのに、なぜ今の日本だけが性欲を根源とした「表層的かわいさ」が消費されるにいたっているのか、
実在する異性で性欲を解消できないのはなぜか、そもそも「表層的かわいさ」の消費は性欲が根源であるのか、
など論証すべき項目は多いけど、今の僕の実力では上記のような疑問を解決できないので、所詮空論の域を出ないのだけれども。



(2)増幅され消費される「表層」
このような文脈を前提に、さらに会田誠の作品を解釈してみる。

これは横から横まで20メートルくらいはあるとても大きな作品だったので記憶によく残っている。

ドンキホーテでよく見る消費を促すためのPOPに囲まれて、中央でリストカットをする女子高生。上にはきらびやかに装飾される「suicide」の文字。
最下段には流れを作る一万円札紙幣。その上部に零れるラーメン。両サイドには(みにくいけど)性交場面を描いた同人誌の切り抜きが集められている。
そして何かのモチーフたる触手。

もしかしたら消費されているのは「かわいさ」「きれいさ」(=性)等だけではないのかもしれない。
国民の代表食である「ラーメン」(=食)、さらには「生そのもの」も蔑ろにされていいような気分が蔓延しているのが世界なのか。
そこでは実在はなく、気分で消費される商品だけがある。
このあたりの時代考証もまだ勉強が足りずできないなあ・・・。


(3)それでもなお目を向けるべき実在

モザイクの背景をバックに、ありがちな典型的「グラビア少女」よろしく描かれる少女。その体は花、いちご、ダイヤモンド、ちょうちょ、ゼリービーンズなど、何となく「かわいいもの」「きれいなもの」・・・に分解して崩れている。そのタッチは、髪など一部細かく書かれている部分はあるけれども、身体の大部分はぼんやりと描かれていてあいまいだ。

それに対し、少女が持つ小さな生物・ウジは比較的細かい筆致で彩色され線も細かい。
他の部分では、バクテリオファージ、クマムシ、DNAなど同じく微小な存在が描かれている。
※実際の拡大画像


そしてスコープはチョウチョ、花など表層的な「かわいいもの、きれいなもの」に向けられている。
その中でひとつのスコープだけが、DNAに目を向けている。

(2)で見たような、「表層の消費」という大きな流れがある中で、単位は小さくてもより「個別具体的」なものから生を構成する必要があるものとのメッセージと僕は解釈している。
会田誠新潟県生まれ。家の周りに塀があり草木がある。自身が生まれ育った新潟での経験は、世界を包摂している。




2.筆致解釈の面白さ

もう記事を書く気力を失いつつあるので、サッと終わりたい。
全18枚のポスターシリーズがあったが、これは、日本の教育システムの中で大衆的道徳を教養され反発する(または思考停止して「学校で容易される答え以外は許容しない」)子どもの心情を
描き出そうとする会田誠の心情が感じられて非常に面白かった。
おわり





グロテスクでエロというわかりやすい素材を取り扱っているだけに話題に上がりやすい・批判されやすい会田誠だが、
そのわかりやすさ・気持ち悪さで思考停止しないでもう少し自分の抱く感情はどこから来ているのか、
理由を掘り下げてみるともっと面白くなるのかもしれない。

会田誠自身は「わかりやすさ」を重視して少女とかグロとかそういうモチーフを選んでいる節はあるけどね。
彼の術中にははまりたくない(でもはまってしまいがちなのは彼の技術か?)

*1:「芸術作品の作者は何らかのメッセージを伝えようと作品を制作しているのか?そもそもそのようなメッセージは存在しないのではないか?という疑問もあるが、ここでは「作者」の意図にかかわらず作品に接した「観客」の立場からの語彙と捉えてほしい。あらゆる作品を自由に解釈する権利は「観客」は確かに保障されているはずだ