聖なるもの
「聖なるもの」、結局3回観てしまうほどハマった。
初回は(たしか)5/10にポレポレ東中野で。「花に嵐」が気になりつつ結局見れなかったことを後悔していたので、「聖なるもの」は絶対みようと思っていたのに、ポレポレ東中野での上映期間が翌日5/11で終了と気づくまでダラダラしてしまっていた。
最終日5/11は舞台挨拶があるとのことで、混雑する中で見るのが嫌だったので前日の5/10に観た。
観終わった後はとにかく写真が撮りたくなった。幾原監督がコメントを寄せているけれども、「『何か作ろう、きっと僕にも何かが作れる』、そう思わせてくれる。」、まさにそんな気持ちになってしまった。
(映画の内容と全然関係ないけど、おそらく同じ回に小川さんが来ていた。フード被ってマスクしてたので厳重装備だなあと思った。)
鑑賞後は相当やられてしまったので、翌日の舞台挨拶付き上映にも参加。
挨拶はまあ普通だった。(そういえば司会の人が、南さんの本名で呼んでしまうミスをしていて、岩切監督が少し狼狽えていたのが面白かった。)
その後もまだ自分の中でくすぶるものがあったので、先日の熱海国際映画祭の上映にも行ってみた。
「聖なるもの」は計3回観たことになる。
(これも映画の内容と全然関係ないけど、上映後に監督への質問とかしていた映画祭関係者は、仕切りや質問の質が低すぎて唖然とした。小川「先輩」の間違いはあり得ないと思います。)
みんなはこの映画どうやって読んだのだろう、と思ってFilmarksとか見てみたが、どれも感想レベルのもので参考になるものがあまりなかったので、自分で書いてみようということで今こうして書いている。前置きが長いね。
以下ネタバレ含みますので、頁を変えます。
1.物語の構造概論
1-1.「入れ子」構造の言わんとするもの
皆さんの感想を見てみると
「小川/南さん可愛い!」
「POVの手法!」
「監督の欲望ダダ漏れ!」
「物語の入れ子構造!」
に大体分類されますが、(いずれも映画の一要素ではあるものの)それだけ言っても表面的な理解にしかならないので、各シーンの意味をもっと考えなければなりません。
その前提として、まずはお話しの展開から復習してみます。
では全88編の予告編が公開されています。
1本8秒×88編なので、合計約11分です。これだけでも結構本編の内容をトレースできます。
ただ、予告編の番号は本編の時間と対応していないので注意が必要です。
結構大変だったけど、予告編を時系列順に並べ変えたものをYoutubeのリストにしておきました。
本作の感想で「入れ子構造!」が1類型としてあることは冒頭に触れました。それは物語の構造に関する感想でしょう。
恐らく大部分の鑑賞者と同じ考えかと思いますが、僕の考える本作の物語の構造は下図の通りです。
後の主張につなげるため、下図の構造においては、本作内だけではなく、「聖なるもの」の鑑賞者である我々と、岩切監督も含めて、計4層にレイヤー分けしています。
深い層から見ていきましょう。
④は、劇中で岩切が撮影する映画で、
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学校で、小川が南に詰め寄るシーン(泥棒猫!)
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小川が平田を犬として引き連れて、たっくんに「私のこと好きって言って!」と詰め寄るシーン
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南が「あっちの世界」に行くために、希代扮する少女と渋谷を徘徊するシーン
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南が「あっちの世界」に行くのを阻止するため、小川が滝行するシーン
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南が妊婦の出産を看取るシーン
がこれに当たります。
③は、観客からすると鑑賞時間の大部分を構成するレイヤーであり、④を撮影している人たちの出来事を記録しているものです。
多くの方が不意に突かれるであろう、小川とのベッドシーン(これは文字通り、ベッドにて撮影されたシーンという意味です。)をはじめとするシーンが②にカテゴライズされます。
より細かくみてみると、これらのシーンは、
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映画冒頭の、小川と月を見るシーン*1
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小川による排水溝掃除のシーン
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小川がベッドで、人間の頭の中と宇宙の構造の話をして、今彼らが生きている世界も誰かの想像の産物でしかないかもしれないと語るシーン*2
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小川が(自分の部屋の)ベッドで岩切の脚本を読みながら、「おなかすいた」というシーン
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小川が、夏の予定を聞くシーン。(九十九里浜という提案に対して「いやだ。あんな千葉の海。」と拒絶してくるのは結構良いシーンだと思います)そして、「何で映画取っているの?」と素朴な疑問を投げかけるシーン。
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小川が登場人物の心情や展開をナレーションするシーン全般
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(映画外だが)
に上げられる小川の写真
がわかりやすいところでしょう。
これに加えて、
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岩切による、自分が映画を撮るならばボンジュール鈴木の音楽を使いたいと思っていた、というシーン
もこのレイヤーに含まれます。予告No.33参照。シレっと本編に紛れ込んでいますが、良く考えると④のレイヤーには一回たりともボンジュールMusicは採用されておらず、同Music③に採用されていますので、この岩切のシーンは③の更に上の階層、ということになります。結果②レイヤーにカテゴライズされるものです。
さらに、こちらもさらっと入れ込まれるのですが、
-
松本が、アフリカの原住民族は戦闘(でしたっけ?祭りだったかも…)の時に、黒い塗料を体に塗るという話をするシーン。さらに、松本から「映画って嘘だと思う?」との問いかけに、岩切は頭を抱えてしまい、答えることができないシーン。
も②です。
わざわざ「これは設定ではなくて」と松本はメタ的セリフを言いますが、そのシーンの松本が肩までの長さのボブ?になっていることに注目しましょう。③レイヤーでは胸元くらいまでの長髪ですから、撮影時と時制が異なることが明示的に示されています。
そして最後に、本作を鑑賞する我々が属するレイヤーが①です。これには舞台挨拶等に姿を現す岩切監督自身ももちろん含まれます。
これがこの映画と、それを取り巻く世界の階層構造です。
1-2.レイヤー分類
次に、この映画の各シーンをそれぞれのレイヤーに分類してみましょう。上記で一部シーンは分類済みですが、(記憶の残っている限りの)全シーンでやってみます。
物語の展開とレイヤーを書き出し、エクセルファイルで表にまとめているので、こちらのリンクから、ファイルをご覧ください。
この表には、公式サイトにて公開されている予告篇88本との対応関係も併せて示してあります(C列ご参照)。ただそれだけでは本編すべての展開をカバーすることはできないので、適宜シーンを補足しています。
まず補足が必要なのが最後の方の5/32のシーンですね。これは、上記で見た各レイヤーの登場人物が一堂に会する、レイヤーが取り払われた後の世界です。
またもう一つ特筆すべきなのが、予告編No.88です。これは(おそらく)アフリカの子供を撮影したシーンなのですが、本編ではこのような場面はありませんでした。
ただ、思い起こしてみると、本編中には随所にアフリカの諺が文字で挿入されていました。予告No.88は、この諺に対応するものと思われます。
これで大分準備が整いました。次からは、物語をより深くみていきます。
1-3.神話の機能
まず本作の特徴としてあげられるのは、物語展開に神話的な枠組みが用いられていることです。つまりは、我々の住んでいる世界からすると若干突拍子もない展開が含まれているということです。
これは本作に限らないのですが、神話的な構造を含む作品はよく「話の展開がよくわからない」「ご都合主義」等と揶揄されることが多いです。これは、日常生活のロジックをベースに、映画を「現実」のものとして見ていることに起因すると思われます(これは松本による「映画って嘘だと思う?」という問いに関係するものです。後で詳述します)。
他方、実は、結構神話的な枠組みは映画を含む各種の作品で採用されており、「話のつながりは良くわからないけれど、なんとなく感じるものがあるなあ」と思われる方も多いのではないでしょうか。典型的なのはジブリ映画です。ほか、村上春樹作品も神話構造が多いですね(岩切監督は、村上作品は結構好きなのではないかと推察します)。当然のことながら、昔話やことわざのようなものもこれに属します。
神話的な物語の機能は、世界を抽象化して捉えることができる点にあります。例えば、ジブリや村上春樹、その他昔話によくある筋書きとして、
というものがありますね。典型的な冒険譚です。
これが物語による世界の抽象的把握の一例です。「今なにか足りないものを埋め合わせるためには、今までの延長線上ではなく、何か今までと違うことを頑張ってしなければならない」のように噛み砕いて説明されると、なんとなく腑に落ちるのではないでしょうか。
(なんか「ですます」調が面倒になってきたので普通の語り口に戻します。)
長くなったけれど、要するに、ちょっとおかしな物語展開には、抽象化された世界認識が隠されていることもあるので、本作でもこのような隠匿がないか見てみる必要がある、ということだ。
2.物語の構造分析
2-1.レイヤー③の神話
では、本作の上映時間の大部分を占めるレイヤー③の物語構造を見てみる。最初から全部を一度に通して見るのは説明が散漫になってしまうので、場面ごとに区切ってみてみよう。
まずは、
- 岩切が橘先輩にカメラを借りる。新入生勧誘を依頼(命令)される。
- 新入生勧誘に失敗する。
- 花見に参加。先輩から謎の少女と3つの条件の話を聞く。
- 新入生合宿に参加する。南と出会い、映画の出演依頼。
- 酒をあおり、南に同棲を打診。南から承諾。
までが一区切りだろうか。
他の人も言っている通り、本作は、南に仮託した「聖なるもの」と岩切の関係を描いている。もっと具体的にいうと、これは岩切が映画の傑作を撮りたくてたまらないが、「映画の女神様」ともいうべき南は、手に入ったと思ったら離れてしまうような、接近と緊張の関係が描写されている。よって、この映画を読み解くには、まずもって岩切と南の距離感がどう変わっていくかを見る必要がある。
なお、冒頭の青山ひかると橘先輩の演技は、他の出演者と比べるとあからさまに「演技してます!」という感じがして相当違和感がある。これは単純に二人が演技になれていないから、という見方もできるけれども、あとで説明する橘先輩がこの物語で果たす機能を踏まえると、あえての演出なのかなという邪推もできる。
ちょっと話は変わるが、なぜ少女の怪談において、最後の条件は明かされないのだろうか。
それは、明かせないからだ。
映画の神様に死ぬまで愛される監督は、今までの映画史の中で一人たりともいない。生涯傑作を撮り続けられる監督は、一人もいない。
だから、最後の条件は、誰も知らない。
話は戻って、ここで、岩切と、「聖なるもの」の化身である南との関係が構築されたが、もう一人のヒロインに(当初想定していなかったものの)据えられた小川と岩切の関係が始まるのは、次の区切りからだ。具体的には以下。
- 小川に脚本のコメントを依頼。小川から客観性がない、面白さは観客が決めるもの、というコメントをもらう。小川に出演依頼。岩切態度がでかい。小川期限付きで承諾。
- 小川と南初対面。小川は驚きのあまり帰宅。南制服姿に岩切絶句。
- 岩切映画に半田、小川から「わけわからん」「不自然」「人の動かし方がわかっていない」とコメント。
- 半田から「小川に感謝しろよ、相当優しいぞ」と助言。帰宅すると南が失踪。(このシーンがこの場所だったか、正直ちょっと自信がないが、学校のシーンから滝行の間に位置することは確か)
南との関係が遮断されるところで一旦の区切りとしよう。
まず小川については、岩切と同じく映画を撮影する者として、彼女なりの哲学を持っている様が描かれている。彼女は岩切の対抗要素として、「客観性」を化体するものとして機能している。小川は南と直接の関係は薄く(岩切と南の同棲に動揺したシーンと、最後の小川組撮影倉庫でのランデブーくらい)、岩切と南の関係性変化の要因として、直接関与することはない。むしろ、小川が岩切に映画に関するコメントをし(岩切の映画へのスタンスに刺激を与え)、岩切と南の関係性に間接的に変化をもたらす媒介として機能している。それは、この映画の撮影手法としてPOVが採用されたことの一つの帰結ともいえる。岩切の主観として語られる物語なので、岩切を介さず小川と南の物語が進展する様を見るのは、相当イレギュラーな場面になる。
小川が化体するものは「客観性」だと書いた。平たく言うと。「自分が撮りたいもの」よりも「観客がどう楽しめるか」の視点で映画を作る価値観を現しているということだろう。理性的に映画を撮影する立場、と言い換えても良いかもしれない。その「客観性」のシンボルたる小川は、なぜ特撮映画を選んだのだろうか。僕も確たる答えは持っていないけれども、おそらく特撮は「明確に嘘」だし「シーンのすべてが撮影者の意に沿っている」からじゃなかろうか。
小川は、岩切が松本家に不法侵入しゲリラ撮影した後、岩切に長文の非難メールを送っている。実際どのようなことが書いてあったかは後で見るが、そのメールの一節に、「いそらさんの撮る映画は嘘、全部嘘。」というものがある。では、小川が撮る特撮映画は「本当」なのだろうか?もちろん違います。
ここからは妄想だが、小川は、潔癖な映画哲学を持っていると思われる。岩切を非難する文面を見ても、小川は「映画は(一部ではあるかもしれないが)真実をあらわすもの」と考えている節がある。しかし、おそらく彼女はその欺瞞に気づいている。現実に依拠した画撮りをしていると、少なからず偶然性に振り回されることになる。自分の思う真実を描写したい時に、その偶然性をノイズと小川は考えているのではないか(これは岩切と、そして「聖なるもの」を撮影した岩切監督と明確に異なる立場だ。)。特撮は、その偶然性を可能な限り排除できる形式だと思われる。背景も含め、すべて撮影者のコントロール下に置かれるからだ。特撮のすべての要素は理性により客観的にコントロールされる。これが、小川が特撮を選んだ理由。「人の動かし方がわかっていない」というコメントは、コントロール者からしか出てこない言葉だ。
小川にコメントを依頼する際、岩切は「聖なるもの」を発見した自負から、小川に対しでかい態度をとる。岩切は、自分の見つけた「聖なるもの」が、小川を含む他の撮影者にとっても「聖なるもの」であると信じて疑わないので、当然、自分の映画撮影には小川は協力する(べきだ)と思っているのだろう。
撮影を経るにつれ、客観性のシンボルである小川からダメだしされつづけても、岩切の自信は揺らがない。「聖なるもの」に対するアプローチは変わらず自分の思いだけに依拠して、客観的なコメントには耳を貸そうとしない。そうなると「聖なるもの」は自分の手から離れてしまう。南も失踪してしまった。
次の区切りは以下。
- 滝行に向かう車中、小川から「映画のためにやっているんだからね」と念を押される。岩切はその発言の意図がわからず、「俺も映画のためにやっている」とかみ合わない反論。岩切態度がでかい。半田から撮影順調とのコメントあり。小川が協力できるのは5/31までに修正される。
- 岩切、先輩に、「南が謎の少女かも」「今年選ばれたのは僕かも」と調子に乗った発言をする。南発見、追跡、しかし失敗。
- 先輩から、前回、怪談の少女に選ばれたのは橘先輩と教えられる。
- 橘先輩と青山のYoutuber動画を見る。蛇女の動画で、気になる家(監督曰く、熱海だそうです。)を見つける。
小川が言っているのは「(あんたのためじゃなくて、観客が楽しんでもらえるような)映画のためにやっているんだからね」ということだろう。
岩切は、自信が有り余っているので「は?俺も(俺が撮りたいと思う、楽しめる)映画のためにやっている」と反論。議論がかみ合っていないが、ここでも「聖なるもの」の後ろ盾を得ていると思っている岩切は、態度がでかい。半田も言うように、撮影は順調だし。先輩にも調子づく始末。
しかし、そんな傲慢な監督から「聖なるもの」は既に離れているのだった。南を発見、追跡するも、このような傲慢さと、先輩に励まされながらしか追跡できず、独力では太刀打ちできない実力不足が相まって、南を見失ってしまう(そしてこのとき、南は小川と落ち合っていることが後のシーンでわかる)。「聖なるもの」に近づくためには自分の力だけで走るしかないのですよ。岩切のアプローチの敗北が明示された一幕だ。
その後、橘先輩がYoutuberになっていることが判明するが、僕は橘先輩の役割は結構重要だと思っている。なぜなら、橘先輩は、客観性アプローチに打ち負かされた岩切の成れの果てだからだ。
「自分の思う面白さと、観客の思う面白さは違う」。小川の言葉だ。それでは観客が面白いと思う映像を突き詰めると何になるか。あからさまに演出され、細切れのシーンで場を取り繕ったYoutuberの動画になる。橘先輩は、一度は謎の少女に選ばれたものの、その後観客の目を意識しすぎて堕落してしまった。岩切は自分もそうなるのが怖い。そうならないためには、何か今までと違うことをしなければと、岩切は焦ったはずだ。
次の区切りはこちら。
- 小川と家ロケハン。住民不在かつ鍵見つからず断念。
- 後日単独突撃。鍵を偶然発見し、家に不法侵入可能となる。
- 出産シーン撮影途中、住民である松本帰宅。小川とともに岩切謝罪。松本は「映画のため」であれば問題ないと説明。
- 撮影終了後、小川から「みんながこの映画撮りたいと思っているわけではない」「気持ちだけで映画とるのやめなよ」と批判される。岩切またも意図を汲みきれず、「みんな映画撮りたいから映研入ったんじゃないの」と反論し、小川に愛想を尽かされる。非難メール受信。その他のメンバーも離れる。
奇しくも、橘先輩の動画を見てると、不思議と心惹かれる竹藪と、奥に続くトンネルのような道を発見(トンネルは神話では生まれ変わりのモチーフですね)。小川とロケハンいくも、やはり独力ではないので、家は発見できません。他者の助けを借りていてはいけません。(全然本論と関係ないけど、予告No.68の小川の佇まいはかなり好きです。)
独力で挑戦すると見事鍵を手に入れます(不法だが)。そして現行犯逮捕。しかし松本は「映画のため」なら問題ないと言う。岩切は救われる。小川のように客観的な視点に適合してるかどうかは問わず、岩切のスタンスをそのまま肯定してくれるからだ。安心しきった岩切は、小川は必死に謝罪しているのに、自分は暢気に水を飲む。なぜなら目の前にいる人は協力者だから。撮影後、家を出たあと、松本から「またきてね~!」と言われて、小川はじめ他のメンバーは振り返り礼をするが、岩切は振り返りさえしない。既に松本が肯定者とわかっているからね。
そこで小川の喝。非難メールは(一部見えないところもあるが)概ね以下の内容だ。かっこ内は推測です。
今日のことは本当に許せないです。私だけじゃなくて、私の映画のスタッフや、キャストの皆さんまで巻き込んで。犯罪を犯してまで映画を作りたいですか。みんながルールの中で戦っているのに、自分だけがそこから外れることがかっこいいと思ってるんですか。一空さんは他人が、女性が、生き物ではなくてロボットか何かだと思っているんだよ。だから、命令すれば動くと思ってるし、動かないと怒る。最低。誰もあんたの映画を手伝いたいと思ってなんかない。そもそも、人間の事をそんな風に見てるから、あんなに嘘っぽい映画を作れるんだよ。何、泥棒猫って。外の世界だってないから。そういうアニメの設定みたいなものを映画の中に持ち込まない(で。)本当に気持ち悪い。(以降はよくわからない)
(一空さんは人間の)ことを全然理解(していない。あの映画は)全部、嘘。一空さ(んが撮る映画)は全部、嘘。きっ(と、一空さ)ん自身が空っぽの人(だか)ら、嘘で誤魔化す(しかない)んだろうね。かわ(いそう。)もう金輪際、一空(さんの)映画は手伝わないか(ら。)
厳しい一発ですな~!蓋し、正論である(最近パンク侍観ました)。でも、私自身は、小川の撮る映画はまとまりすぎてて予想を超えることがなさそう、と勝手に思ってしまいますなあ。私見です。
次の区切りに移ろう。
- 大学に登校。南を発見し、単独で追跡。小川と落ち合う南を目撃。「小川…!」と呼び捨てになる岩切。
- 小川組撮影倉庫で小川と南がランデブー。ナレーションで「小川に聖なるものを奪われた僕は…」と説明あり。
- 岩切、松本家に逃げる。アフリカ戦士のように黒塗りにされる。
- 岩切、小川のセット破壊。花火?で破壊シーンが壮大に演出されるも、同時に現実的な描写もあり。
やっと南を自分の力だけで追いかける岩切。結果、南に追いつくことができました。でも、そこでは、キツイ一撃をお見舞いされた小川と南の仲睦まじい関係を目の当たりにしてしまう。岩切のアプローチの敗北が、再度確認されます。
いじめられっ子は、いじめられたらママのもとに帰る。岩切もそうする。ママからは、黒塗りという武器をもらって、小川を、小川のアプローチをぶちのめそうと高ぶる岩切。自分の中では気持ちが昂揚してある種のヒーロー(というか戦士)目線になっているので、自分のことは怪獣のように美化されて見えるが、結局それは自己認識による歪みで、「客観的」に見たら、しょぼくセットをわちゃわちゃやっているだけなのであった…(既に壊され床に散乱したセットの一部を、ぽそぽそ踏みつける様は、滑稽で結構笑った)。
これがレイヤー③です。これだけで結構物語の構造がわかりますね。
2-2.レイヤー④の神話
一応、レイヤー④も観てみよう。レイヤー③で半田・小川らに「よくわからん」「人の動かし方がわかっていない」等とダメだしを受けているように、日常生活のロジックとはかけ離れているので、一般的な理解を得るのは難しいが、僕は岩切なりの、物語の必然性を感じる。具体的にみてみる。
レイヤー④の物語展開は、概ね以下の通りだ。
- 南は外の世界に行きたがっている。
- 小川は、南がたっくんと寝たと思い込み、周囲を煽りながら南を非難する。
- 小川は、周囲を「犬にして」、たっくんに対し「好きって言って」と好意を強要する。
- 他方、南は街に繰り出し、外の世界に行こうとする。それは徒歩でないと行けない。夜になったのでやめた。
- 小川は、外の世界に行こうとする南に対抗して、周囲の反対を押しのけつつ、滝行によって阻止しようとする。
- 南は、先輩扮する妊婦の出産を看取る。妊婦は、赤ちゃんは「向こうの世界」(または「世界の果て?ちょっと忘れました)からやってくる、という。
レイヤー③よりだいぶわかりにくいね。メタ的にかいつまむとこんな感じだろうか。
なお、レイヤー④はレイヤー③とパラレルな構造になっている、との予感を基にしている。
つまりレイヤー③の岩切が思う世界認識だ。
- 突出した傑作を撮るためには、他の人と同じ世界にいてはならず、そこから飛び出す必要がある。
- そのためには、地道に、着実に進まなければいけない。神がかり的に傑作は取れない。
- その過程で、もといる世界の人たちからは非難を浴びる。声のデカい非難者は共感者を(半ば強制的に)つくり、同調圧力を利用する。
- それでも抑えられない場合、非難者は対抗するために、ある種「もといた世界から飛び出す」ためのパワーアップ行為が必要となる。
- 結局、どちらもアプローチとしては成功しないが、最終的には人間自身から、新たなものが生まれてくる。人間ってすごいね。
稚拙~(私の読みが)!正直僕もここはよくわかりませんが、でもなんとなく「そうかもな」という気はする点で、小川とは半田よりは岩切寄りなのかもしれない。ここのレイヤーの解釈はもう少し考えてみたい(これ書いているのは深夜1時で、もう眠い)。
3.神話要素を盛り込む意図
神話の機能は、世界の抽象的な認識を提示することだと書いた。それは今いる世界を一段上のメタレベルで解釈することから始まる。レイヤー②の機能は、メタレベルの存在を示唆することで、レイヤー③の世界を抽象化する構造を示唆する点にある。
思えば、この映画の冒頭はアフリカのことわざ(これも世界を抽象化したものだね)から始まるし、その後のシーンも、小川とどこかの屋上で月を見る親密なシーンだし、メタレベルの存在は最初っから示されていた。
でも、「小川のベッドシーンエロい」とかそういうコメントがあるのを見ると、そういう人はレイヤー②があるのを意識していないのではないか、という気はする。
もう一つ、南や小川の可愛さに触れるコメントは結構多くて、それはそれで僕も同感ではあるし、岩切監督の趣味の部分も多分にあるとは思うが、これは「客観性」すなわち「観客にとっての面白さ」に配慮した岩切監督の意図があったのではないかと僕は思う。
レイヤー③で小川から相当手厳しい指摘を受けていたり、最後の5/32のシーンで、結局小川からカメラを奪われ海に投棄、ぶん殴られる場面があることからすると、岩切監督は結構冷静にこの映画を撮っていたと推察される。
したがって、キャストを選ぶ一要因として彼の趣味はあるにせよ、別要因として、観客たる我々の眼福効果すら見通していたのではないかという印象を受けています。
その冷静さは、POVという手法を採用したところにも反映されていると思われる。POVの採用によって、この映画の「本当っぽさ」は格段に強化された。それは観客が、この物語を現実の一部として誤解する確率を高めている。観客が現実としてこの映画を受け止めるとき、そこに神話化のプロセスが生まれる。つまり物語を抽象化して理解し、翻って現実生活に接続するということだ。
絵画を見て、声高に「これは嘘!虚妄!」とか叫ぶ人を見たことはない。それに比べ、映画や写真は「これは本当なのか?嘘なのか?」という問いが立てられやすい。一部なりとも現実に依拠している、ように擬態しているからだ。結局どちらも、当然嘘なのだ。人工物という意味合いにおいて。
「明らかに嘘」の物語であれば、迂闊にもエンターテイメントとしてその場限りで消費され、観た直後に内容を忘れてしまう確率を上げてしまう。それをできるだけ防ぐ思惑が、岩切監督にはあったのではないかと思う。そしてその思惑通り、僕は結構この映画のことを覚えているし、その結果こんなにも長文を、最後にこの映画を見てから3週間位たっても、(明日仕事があるのに)深夜に書いているのである。
この映画の力強さは色々判断あると思うが、個人的には、ものをつくるときの昂揚とか苦悩とか葛藤のようなものをリアルに感じられたことが一番の要因なのではないかと思う。僕は趣味で写真を撮っているけれども、たまーに、ほんとたまーに「ポートフォリオつくらんとな」と思うことがあって、そのために色々考えたりとか、本を読んだりとか写真集を分析してみたりもする。結局大きな成果には結びついていないけれども。
その時の心の動きが、この映画の岩切の動きとパラレルになっている。幾原監督のコメントも、多分同じ気持ちで発されたものだと思う。
結局、その気持ちは滅多に報われないのだが、それでもなお、苦しいけれど作り続けてしまう。だってそれしか、この社会で生きていける方法がないのだから。そういう、体温というか、肌理というか、息遣いのようなものが感じられるので、僕はこの映画が結構好きだ。
巷(日本?)の若手の映画監督には珍しく、「俺の映画論」を真正面に描いたところに僕は親近感を覚えた。ここを掘り下げると、中途半端にスルーした人とは大きな差が出るのではないかと思います。
勝手な論で恐縮ですが、岩切監督はこれからも「話がよくわかんなーい」「結局女優がかわいいだけでしょ」等の声を聞いてしまうでしょう。でも、少なくとも僕は、あなたの映画が結構好きなので、これからも、ちょっと疲れるけれども、可能な限り、構造を読み解こうと思います。なので、過度に「客観的」にはならないでいてほしいですね。応援しています。