予感の手触り

感想の掃き溜め

はちどり

2020/7/25(土)10:10~@ユーロスペースにて鑑賞。
泣いた。
素直に泣いた。のだが、30超えのおじさんが、主人公14歳の中学生女子である本作のどこで泣くのだ?という問いに対する答えを残しておくことが今後の自分にとっても良いような気がするので文章で書いておく。
完全にネタバレを含むので、一応ページを変えよう。


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まず泣いたポイントを、それと深く関係しそうな、泣きそうだったポイントも交えて確認しておこう。
それらを念頭に置きつつ、各論点について考えてみたうえで、泣いた/泣きそうだったポイントについて振り返る。

泣いたポイントは下線(下線がないのは泣きそうになったポイント)とすると、

1.ボールペン万引き時、ウニが親友ジスクに売られて絶望した後、お茶を振舞いつつ話を聞いてくれた、ヨンジ先生のお礼として、文字通り自家製の餅風呂敷を持って塾の扉を開ける瞬間。

2.後輩ユリとのカラオケ
 ここで歌ったのは、調べてみると1989年に出された「愛はガラスのようなもの」という曲みたいだ。Youtubeには動画もある。
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3.ウニとジスクが塾で久々に再会した時、先生が「切った指を埋めて焼酎飲みながらとぼとぼ彷徨う」みたいな歌を歌うシーン
 ここで「歌おうか?」と提案できる先生の思考がやばい。
 このシーンになった瞬間に自分ならどうするか考えたが、「私はちょっとタバコ吸うね」とその場でタバコ吸う対応しか考えられなかった。

4.彼氏との120日記念にテープに歌を吹き込むシーン
 観客は、今までのシーンで来ていた服よりもかなりおめかししているウニに気づく。また観客は、テープを吹き込んでいる最中はその理由に気づくことはできないが、次のシーンで彼氏との(初?)デートであることで得心する。
 デート冒頭で一瞬だけ流れる曲は「カクテル・ラブ」という曲らしい。1994年発表。流行りの歌をテープに吹き込むウニの精神へ思いを馳せてみる。
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5.部屋でダンダン飛び跳ねて地団太踏むウニ
 この前後のシーンの記憶がないのだが、前は学校で彼氏ジワンが別の女子といちゃついている場面をウニが目撃してしまったシーンだったろうか。

6.ウニが先生にスタンダールの『赤と黒』を貸した後、思い出したように階段を駆け上がって先生に抱きつくシーン

7.ウニが先生からの手紙を反芻し、同級生たちをキョロキョロ見回すラストシーン
 最後が一番泣いたかもしれない。

なぜ泣いてしまったかはこれから書きながら考えたいと思うけど、その前にユリとのカラオケのシーンで歌った「愛はガラスのようなもの」の歌詞が見つかったので共有しておこう。
拙訳なので不正確な表現があったらすみまへん。

I never knew that love is like glass
Love shines yet it breaks so easily
Now the love has been broken
All there is are bits of pieces left
The pain deep in my soul is unbearable
I am sad now but the scar is there
As time goes by it will be hard for me
It's going to be hard
If you loved me remember this
From that love it was all an illusion

愛はガラスのようなものだとは知らなかった
愛は輝いているけれども簡単に壊れる
今となってはもう壊れてしまった
残っているのは愛の欠片だけ
深く心が傷ついて私は耐えられない
今も悲しいけれど傷はもう残ってしまった
時が経つとなお辛くなる
辛くなるのでしょう
もしあなたが私を愛していたのならこのことを覚えておいて
愛なんてものは幻だったということを

사랑은 유리같은 것 (1988年) Song by 원준희 : 네이버 블로그

"but the scar is there"の訳が難しいが、英語訳だけ見ると傷との距離(つまりある程度の癒えがニュアンスとしてある)が表現されているような気がするものの、前後の文脈を考えると「傷が残った」程度に解するのが自然な気がする。
最後の2行を見ると、本作でウニが彼氏に最後に言い放った「あなたのことを愛していたことなんて一度もない」というセリフが想起される。

それでは、以下では頭に残った各論点について考えていこう。

1. ウニのこころ

相知満天下 知心能幾人
ウニが自分の心と向き合う切っ掛けになった格言。という表現は些か不正確かもしれない。パンフレットには「禅語」と書いてある。
交友編の禅語と本編では紹介されていた。
日本語訳として「世には顔見知りがあふれているけど、そのうち本心まで知っているのは何人?」と本編で説明があったところだが、
これは反語として、つまり「世には心を知ることができる人は多くはいない」と理解するのが自然だろう。

この禅語を改めて確認するまでもなく、本作の主眼は心に向けられているので、まずは主人公ウニの心について考えてみる。

しこりの表すもの

ウニのしこりは心を表す。「心にしこりが残る」と直接的な表現も日本語にあるよね。
本作におけるウニのしこりの扱いは、ウニの心に対する他者の扱いそのもののように感じられる。
彼氏はしこりに気づかない。下校途中にウニが右首筋に違和感を抱えることを訴えても、彼氏は異変に気付かずにそのままスルーしてしまう。

虚ろな表情でソファに横たわる母親にウニはしこりの相談をする。母親は触診でしこりの存在を認めつつも、しこりを大したことないものとあしらう。病院への受診を勧めるものの、受診先は家から距離の離れた親戚のかかりつけ医であり、ウニの不安、内に抱える深刻さに気付いていないように見える。

町医者も、しこりの成分検査には母親の承認が必要だという。医療制度上それは仕方のないことだが、ウニは「そもそも私の体なのになぜ母親の承諾が必要なのか?」とでも言いたげな困惑した表情を浮かべる。二回目の受診で、承諾書で済ませようとする町医者に対し、ウニは母親に直接電話するよう依頼し、ようやく切開、しこりの成分分析が行われる。分析後も、町医者はより大きな病院へ検査に回さないと判断できないと当事者性を見せない。
(ただ、この町医者は、兄にぶたれて鼓膜が破裂したウニに対し、暴力の証拠になるからとの理由で必要になればいつでも診断書を出すと言っており、父権社会においてもウニに理解を示す。
このことから考えると、町医者がしこりの良性悪性判断を大きな病院に委ねたのは、自身の専門性の限界を理解していることによるものだと考えられ、そのためにこの町医者を理解のない大人と断ずるには早い。)

総合病院に診断してもらった結果、しこりの摘出が必要であり、摘出手術*1の結果としてごく低確率ではあるが顔のマヒやむくみが現れる場合があるという。

姉の彼氏はしこりの手術跡を痛々しく眺める。傷跡を見せる時、あまりにも痛々しくて姉は目を背ける。
そして、最も重要なことなので敢えて最後に触れるが、ウニはしこり摘出後に、それがどこに捨てられたかをとても気にする。


このようなしこりのエピソードを心に置き換えて敷衍する。
心とは、彼氏のような他者の中でも比較的親密と考えられる関係性の中でも、その苦しみが理解されないことがある。最も親しい他者である肉親においても同様である。
更には専門家(心理学者や精神科医でしょうか)にとっても、苦しみの処方箋が何かわからないことがある。
例えうまく心を摘出したとしても、その後遺症として表情(ひいてはそれを作動させる感情)を失ってしまう危険性を孕んでいる。
心の傷は、共感してくれる他者にとっては目を背ける程の傷となることがあり得るが、その傷は(ウニの髪ですっぽり覆い隠されてしまうほどに)他者からは容易に見えないために、そもそもその存在を他者が認識すること自体が難しいし、仮に認識できたとしても、その他者がウニの心の傷、およびそれに伴う痛みを直接経験することができないために、本質的な意味で他者が心の傷を理解することができない。
心は一旦負傷してしまうと(ウニがカラオケで歌った曲の歌詞を援用して)ガラスのように原状回復することが不可能だが、しかしながら、ウニはそれ、すなわち心を手放してしまう、または処理してもその行く末を無視してしまうことができない。ウニは直感的にそれを理解しているために、摘出後のしこりがどこに捨てられたのかを気にするのである。


トランポリン

複雑な心を抱えたウニには苦しみがあった。では、本作ではウニは終始その苦しみに苛まれているだけだったろうか。それは違う。
いわば心のアップサイドのようなシーンがあった。その象徴がトランポリンである。
本作ではトランポリンのシーンが2つある。
割と序盤で、制服を着たウニと親友ジスクと制服をまとってぴょんぴょん飛び跳ねるシーン。上からのカット。トランポリンの周囲には、安全対策だろうか柵が張り巡らされている。
制服は、教師が「カラオケいくなら勉強してソウル大入れ」というのに代表される、競争社会において勝者となるように強制されるシステムの現れである。
そこには、競争を促された結果として敵対することとなる、同じ学校の生徒たちも含まれる(予告編で、ウニに対し「あんな子は大学に行けなくて将来は家政婦だよ」と無惨にも言い放つクラスメイトの言葉を想起する)。
また上からのカットは、そのような競争を強制されるシステムの下で生徒たちを監視し抑圧する先生、ひいては大人、支配者の視線である。
このトランポリンのシーンでは、ウニとジスクはさながら檻に入れられた鳥のように必死にはばたく。抑圧下においても仲間がいるのがせめてもの救いであろう。

もう一つのシーンは、私服を着たウニ・ジスクが飛び跳ねる下からのカット。先ほどのシーンとの対比でよくわかりやすい。
ウニは私服を着ており、飛び跳ねている最中ではシステムによる抑圧から無縁に見える。
それはさながら自由に飛び回れる鳥のようである。
(予告 1:40-)
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ここでは更にトランポリンの概念を広げて、ウニが飛び跳ねるシーンを見ておくことも有用だろう。
クラブ、そして家でのシーンがそれにあたる。
私服を着たジスクとウニは地下のクラブに繰り出す。そこで後輩ユリとその友人に声をかけられる。最初こそ同じ学校ということで警戒するウニだが、クラブの雰囲気も相俟って最終的には4人で輪を作りぴょんぴょん跳ねる。
その後、4人は外でタバコを吸い、ウニはユリに「姐御になってくれないか」と要請される。戸惑いつつもその表情はまんざらではなさそうだ。
例え姐御として頼られる存在であっても、そこに関係性があれば存在意義を認めることができるという安心感であろうか。
(予告 1:29-)
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最後の飛び跳ねシーンは、学校で他の女子といちゃつく彼氏を見て失意のもとに帰宅した後、ウニが制服(システムの比喩!)を着て居間でぴょんぴょん、というよりはダンダン飛び跳ねて抱えきれない鬱屈を体外に排出するシーン。
その動きは地団太とも違うように見える。地団太は(私の勝手なイメージかもしれないが)片足を挙げて、拳を振り下ろす仕草であって、このシーンのように飛び跳ねたりはしない。
この時のウニの動きは地団太の上位互換なのだろうか。
(予告 1:19-)
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このように(拡張後の概念を含む)トランポリン、飛び跳ねのシーンは、窮屈なシステムから離脱しようとするだけにとどまらず、そのシステムの監視下においても必死に心を統御しようとするウニの自衛策として立ち現れているように感じられる。


辛いときに指を動かす身体性への回帰

トランポリンと同様に、辛いときの対処法として、ウニはヨンジ先生から指を一本一本動かしてみることを教えてもらっていた。
「地に足を付ける」こと。自分が何かしらできることを一つ一つ確認すること。それによって自身の存在をミニマルなものから肯定していくことを描写しているものと考えられる。
これと非常によく似た話に、自己肯定感を回復するための方策というのがある。
それは、自分を肯定できない時は、小さな目標(それはとても簡単なものであってよい、というか寧ろ簡単なもののほうがよい)の達成を一つ一つ積み重ねることによって、自分が何もできないわけではないというバイアスを正していくというものだ。
ヨンジ先生の言う「指を動かす」という課題は、健常者のウニにとっては息をするように容易い。
「そんなもので自己肯定感が回復するのか?」という人もあるかもしれないが、心が弱っている時にはそのような極めて簡単なことから始めるのが一番である。
ヨンジ先生のアドバイスが秀逸なのは、身体性から出発しているところだ。
自らが所有者である身体を動かすことができれば、自己の存在は疑いようがない。(デカルトの言う懐疑的自己ではなく)身体としての自己を呼び覚ます儀式が、ヨンジ先生がウニに授けたものであった。

なお、ヨンジ先生が指を動かすことを教えてくれる前に、直感的にウニは自身の身体性に自覚的であったシーンがあった。
家族総出で、大量注文が入ったときに餅屋で大量の餅を製造していたシーンを想起する。
ここでウニは、棒状に成形された餅を、機械を用いて薄くスライスする工程を任されている。
餅を差し込めども差し込めども終わりのないように感じる作業の中、ウニは自分の両手の手のひらを眺める。
餅屋は大量注文に対応するために忙殺され、経済システムに絡めとられている。ウニは経済システムに動員される。そこでウニは自分の存在意義が揺蕩ってしまうことを感じて、対処療法的に手のひらを眺めていたのではなかろうか。


母の作ったチヂミを食べる
同じくウニの身体性を感じるシーンがある。ウニがチヂミを食べるシーンである。本作では2つのチヂミ実食シーンがある。
まず一人でチヂミ食べるシーン(残念ながら前後のシーンは忘れてしまった)。チヂミはかなりの枚数があり、冷めている。恐らくウニだけではなく他の姉兄の分もあったのだろうが、ここに、母から見た時のウニの匿名性、というよりも固有名詞を失ってしまった悲しみを感じる。ここでウニはチヂミに齧り付き引きちぎるように食べる。確かチヂミは手で持っていたはずだ。
もう一つは伯父さんに会いたいと思うかと問い、母親に作ってもらったチヂミを食べるシーン。焼きたてなので勿論温かい。かつ、ウニのためだけに作ったのでその枚数は2枚である。チヂミを切るのは箸を持ったウニの手であるが、その箸は行儀よく揃えられた扱いではなく、それぞれの手に一本ずつ持ってナイフのようにしてチヂミを引き裂く。
特に前者のシーンで顕著だが、家族で多くの総菜を囲んで食べるシーンよりも、ウニが一人で又は母親と夜食でチヂミを食べるシーンは、結構獣っぽい食べ方になっている。*2
体感として、いろいろ心を悩ませつつも、美味しいものを食べるとその悩みが軽くなるという現象を誰しも経験したことがあるだろう。
上記のチヂミのシーンは、自身でもコントロールできない心の動揺と対比された、身体的な安息を回復させるための食事、というより捕食の位置づけを確認するものと感じられる。

ただし、それぞれのシーンにおいて、ウニを取り巻く環境は変わっており、チヂミを食べるシーン間でも対比が描かれていることにも注目すべきである。
最初のチヂミを食べるシーンでは、ウニは一人で冷めたチヂミを手で食べる。
他方、母親とウニがチヂミを食べるシーンにおいて、母娘間で交わされたやりとりは、自分の親しい人を喪失した時の心情として、その人がいないことが不思議という、現実を受け入れたくない心を抱えながら浮遊するしかない、地に足のつかなさが共有されている。ここでは確かにウニと母親の心が、たとえ一部であっても重なり合っていたのではないだろうか。
身体性と心とがともに平穏となる可能性が示唆されている。


2. 自分ひとりで生きていかなければならないこと
それでもなお、いや、それだからこそ他者への関心が湧いてくること

ここまではウニの鬱屈と対処法としてのトランポリン、身体性の回復について見た。
勿論ウニは独力でこれを成したわけではなく、ヨンジ先生の助けも借りている。
ヨンジ先生がウニと対等に接し、ウニの声にきちんと耳を傾けていたことが、ウニの回復に寄与したのは言うまでもないし、それを細かに追っても、他の人が詳しく書いていそうな気がするのであまり気乗りがしない。
私が本作を良いと思うのは、その支援者であるヨンジ先生ですら、心に喪失感を抱えており、最後にはウニの前から姿を消してしまうことにある。
この現実世界同様に、心の傷は誰かスーパーマンが都合よく救ってくれるわけではない。一時的には他者の頼りに寄り掛かることができても、それに終生依存できるわけではなく、結局は自分で立ち上がらなければならない。
本作は、心の傷を抱えるウニの、単なる自己憐憫で終わらないことに価値がある。
ウニは自分の心の在処を知った。それを教えてくれたヨンジ先生にも心があることを知った。
しからば、ウニがヨンジ先生以外の他者にも心があることに思い至ることになるのは必然であろう。
親友ジスクは、ウニと仲直りした後に「ウニはたまに自分勝手」と言う。
ウニはそこで狼狽えることがない。なぜなら、当然ながらジスクにも心があることに気づいたからである。

その心を持つ他者、同じように苦しみを抱えているかもしれない他者に対して、ウニが関心を抱くのは当然のことである。
ラストシーンで、ウニは校庭付近ではしゃぎまわる同級生たちそれぞれに目を向け、視線はあちこちせわしなく動き回る。
それはまるでハチドリのホバリングのようだ(後でハチドリの動画を貼るので参照してください)。
今まで心を開かなかったウニの、他者との本当の関係構築がここから始まることが示唆される希望に満ちたラストシーンであった。
ヨンジ先生からもらった、白紙で手触りのある、紙の気持ちがよい匂いがするスケッチブック同様に。

なお、原題についてもここで触れておこう。原題は単に「Hummingbird」ではなく「House of Hummingbird」となっている。従って「House」の意味も考える必要がある。
それはウニの居場所、或いは確固たる自己認識が生じたことを表している。
ウニは自己の心という拠点から、他者・外界に向かって飛び立ってゆく。そこではまた心が傷つけられたり疲弊したりするだろうが、自分の心に立ち戻ってゆくことで、また世界と対峙することができる。

3. 他者の心を想像する

相知満天下 知心能幾人

本作はウニの主観に近い形で進行する。映画の構造それ自体が上記の格言と同じ構造を持っている。
ウニの回りを取り巻く人々が抱える事情は、ご親切にも起承転結を滾々と説明していく「普通の」映画とは違って、本作では必ずしも明らかにされない。
そのような構成に対して「よくわからなかった」「説明不足」というような評価も散見される。
が、(「きみの鳥はうたえる」や「お嬢ちゃん」で書いたことと重複するが)それは「普通の」映画に調教されて考える力を失ったゾンビに等しい。
本作を潜り戸にして、日常生活でも他者の心を推し量ろうとする時、当然のことながら心の読解作業の補助材料が必ずしも開示されるわけではない。
そのような不完全情報ゲームの中で、最大限努力して、最大限精確に他者の心を想像することが求められる。
翻って本作のことを考える時、なぜ映画だからと言って典型的な文法をきっちり踏襲しなければならないのか。
率直に言うと、本作は、そのような思考力の低下した観客による解読作業への補助具はあまり用意していない。*3

姉兄の心を想像する。
最後の崩落した橋を姉兄と見に行くシーンを想起する。
姉は、恐らく友人が死んでいる。バスに遅れたために運良く事故に巻き込まれずに済んだ姉は、恐らく時間通りにバスに乗り込み、海へとバスごと沈んだ、友人の見知った顔を思い浮かべているはずである。
兄は、オープンキャンパスで見たソウル大の景色を思い出す。写真ではそのプレッシャーからか浮かない表情をしていたけれども、教授や先輩と会話することもあったであろうことからすると、彼らがこの悲惨な事故に巻き込まれているのではないかと兄が想像することは、そこまで不自然な展開でもないだろう。もしかすると、兄の友人が兄とは別日程でオープンキャンパス行のバスに乗り込んでおり、崩落に巻き込まれた可能性もある。

父の心を想像する。
父は、兄だけでなく姉やウニにも良い大学に入るように口酸っぱく言う。1994年の韓国は父権社会であることを踏まえると、兄だけでなく姉妹にも進学を勧める父は、厳しい競争社会で何とかして子供たちが生き抜いて欲しいという思いから、厳しい発言をしてしまったのだろう。(まあ、やり方がかなり歪なので結局は許される行いではないのだが・・・)
食卓においても、文句を言ってきたおばさんを打ちのめしてやったと自慢気に語る父。家族、特に母はそのような発言(もはや会話にすらなっていない)を聞かず、父は家庭での存在感を失っている。
心の隙間を埋めるように、家に誰もいないうちに社交ダンスを踊り、スーツを纏って浮気氏に行く父。
可能性は低いまでも、ウニに顔面麻痺が生じる可能性があると聞いて嗚咽する父。
父にも心はあった。

母の心を想像する。
冒頭、伯父さんから、母は非常に優秀で大学に行っていれば大成したと語られる。死の寸前であってもそれはお世辞でもなく真実だろう。
しかし現実は、場末の餅屋で只管餅を作って売る毎日で、夫は浮気、家は決して裕福にならない。
帰宅しても疲れ切ってソファに横たわるしかなく、部屋で寝る母のかかとはざらついておりストッキングが伝線し、買い替えることもできない。
それでも彼女が生きるのは、子どもがいるからだ。
兄がソウル大学で撮った写真を眺める母の顔を想起する。それはとても優しい顔をしている。
(予告 0:16-)
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他の登場人物でも同じように(断片的ではあるが)心の内を推し量ることができる。あまり多くを語らない本作だが、「登場人物の感情がよくわからなかった」という一言で片づけてはいけない。
更に対象を広げると、冒頭の団地のカットで主人公の置かれた経済状況が特に恵まれたものではなく、他にも同じように貧しい家庭が多く存在することが明確に描かれる。
団地の別家庭は徹底して書かれない(冒頭のシーンでは結局間違えた部屋の住民は顔を出さない。複数回挟まれる団地の共用通路部分はもちろん遠景としての共有部分に、ウニ以外の家族が現れることがない)。
ここでは、他人の心を推し量ることの困難さが示唆されているとともに、そのような団地で暮らす人々が確かに存在することが明示されている。

相知満天下 知心能幾人

これは、心を通わせられるのは一握りでしかない、という諦念から発された格言ではなく、心を通わせられるように他者の心を想像せよ、という積極的な要請のように感じられる。
ただ、そこにも理性が求められることが、本作では並行して描かれている。

再開発地域の人の「死んでも立ち退かない」の抵抗旗は、無残にも破られ「死んでも・・・」と動詞を失ってしまう。
これに関連して先生は「同情はよくない。彼らのことはわからないのに」というようなことを言う。
ここでは、他者の心を想像しないことと同程度に、根拠なく他者の心を推し量ることにも抑制が求められている。
いずれも「他者の心を現実として想像する」ことから乖離する行為であるので、その帰結は当然だろう。
ソンタグが『他者の苦痛へのまなざし』で、写真(映画も含まれていたかな?)は根本的に他者の苦痛をregardすることができない、と言ってたことを想起したい。

本作の感想を見ると先生を高評価するものが多い。その理由はウニを大人として扱う点においてだ。
他方、そのような評価者は同時に「14歳の少女の瑞々しい感性!」のようなコメントもしていたりする。
ここに大きな矛盾があることを彼らは認識しているのだろうか。
つまり、14歳の少女を対等に扱う先生の姿勢を評価しているにも関わらず、本作の主人公たるウニの心の動きを評価する時には14歳らしさ(それは幼さや不安定さを孕む概念であろう)を持ち出している。
従って彼らは先生のようにウニを対等に評価していない。ひいては、本作のメッセージを何も理解していない。
本作は、なにも14歳の少女の心の揺れ動きだけを描き出している映画ではない。
誰しもが心裡のうちに抱えうる矛盾、理不尽、動揺、不安etc、しかしながら世界と関わろうとする積極的な意思を描いている。
そのコンセプトの下では、先生がこの映画で示しているように、老若男女問わず「心」を対等に扱うことが必然的に要請される。
しかもこの要請は双務的である。つまり、子どもは大人が思っている程脆弱な存在ではなく、大人は子どもが思っている程強い存在ではない。
女性を子どもに、男性を大人に置き換えても同じ主題が本作には含まれている。




4. 個人が大衆と接続するとき

先生に貸したスタンダールの『赤と黒』(背表紙に「赤」「黒」とここだけハングルではなく漢字であることに面白みを感じてしまった)、私は未読なので詳細を語る資格は本来無いのだが、ウニと先生を繋ぐ重要なモチーフであるのでその意味を考えてみたい。
Wikiから引用する概要とあらすじは以下の通りである。

概要
スタンダールはベルテ事件(フランス語版)やファルグ事件を訴訟記録によって知り、庶民であるベルテやファルグに上流階級の欺瞞を打ち破る力が蓄積されていると感じ、この作品を書いた。
この作品が出版契約が成立したときは「19世紀年代史」と副題されていたが、この年の7月に革命が起きたため、七月革命を予言したとの思いをこめて副題を「1830年代史」に変えた。当時フランスを支配していたブルボン朝復古王政により抑圧された社会と、王政復古により復活した旧来の支配階層に対する作者スタンダールの批判が込められていた。
スタンダールの本作品は一時期の人々の精密な観察とその帰結の予測から成り立っており、フランスのリアリズム小説の出発点となった。また、階級闘争を通して人間を描写するという新しい小説観を打ち出した。
青年の青春や恋愛を描いた作品ではあるが、背後には「少数の幸福な人」にむけたメッセージも含まれている。また、野心的な青年、ジュリアン・ソレルの目を通して来るべき革命(七月革命)を恐れながら堕落した生活を送る、王政復古下の聖職者・貴族階級の姿をあますところなく表し支配階級の腐敗を鋭くついている。
なお、ジュリアンが終生愛するレナール夫人は、作者スタンダールの母がモデルと言われている。
幾度も映画化、舞台化されている。

あらすじ
ブザンソン近くの貧しい製材屋の末息子であるジュリアン・ソレル(訳によってはジュリヤン)は、才気と美しさを兼ね備えた、立身出世の野心を抱く新時代の青年である。初めは崇拝するナポレオンのように軍人としての栄達を目指していたが、王政復古の世の中となったため、聖職者として出世せんと、家の仕事の合間に勉強している。
そんなある日、ジュリアンはその頭脳の明晰さを買われ、町長・レーナル家の子供たちの家庭教師に雇われる。レーナル夫人に恋されたジュリアンは、最初は夫人との不倫関係を、世に出るための手習いくらいに思っていたが、やがて真剣に夫人を愛するようになる。しかしふたりの関係は嫉妬者の密告などにより、町の誰もが知るところとなり、レーナルが街のもうひとりの実力者と決闘しかけるなど騒ぎが大きくなったため、ジュリアンは神父の薦めにより、神学校に入ることとなる。
そこでジュリアンは、校長のピラール神父に神職者には向いてないと判断されるものの、たぐい稀な才を買われ、パリの大貴族、ラ・モール侯爵の秘書に推薦される。
ラ・モール侯爵家令嬢のマチルドに見下されたジュリアンは、マチルドを征服しようと心に誓う。マチルドもまた取り巻きたちの貴族たちにはないジュリアンの情熱と才能に惹かれるようになり、やがて2人は激しく愛し合うようになる。
マチルドはジュリアンの子を妊娠し、2人の関係はラ・モール侯爵の知るところとなる。侯爵は2人の結婚に反対するが、マチルドが家出も辞さない覚悟をみせたため、やむなくジュリアンをある貴族のご落胤ということにし、陸軍騎兵中尉にとりたてた上で、レーナル夫人のところにジュリアンの身元照会を要求する手紙を送る。
しかし、ジュリアンとの不倫の関係を反省し、贖罪の日々を送っていたレーナル夫人は、聴罪司祭に言われるまま「ジュリアン・ソレルは良家の妻や娘を誘惑しては出世の踏み台にしている」と書いて送り返してきたため、侯爵は激怒し、ジュリアンとマチルドの結婚を取り消す。レーナル夫人の裏切りに怒ったジュリアンは故郷に戻り、彼女を射殺しようとするが、傷を負わせただけで失敗し、捕らえられ、裁判で死刑を宣告される。マチルドはジュリアンを救うため奔走するものの、レーナル夫人の手紙が本心からのものでなく、いまだ夫人が自分を愛していることを知ったジュリアンは、死刑を運命として受け入れる。

赤と黒 - Wikipedia

入口としては、主題が恋愛ということで14歳のウニにもとっつきやすい作品であったのだろうが、そのテーマは社会構造への批判を含んでいるようだ。
本作も同じ構造をしている。ウニの個人的経験という切り口から始まるものの、最終的には射程が1994年前後の韓国社会全体に及ぶ。


5. 泣き(未遂)ポイント総括

本作を論点毎に敷衍したので、冒頭の泣いた/泣きそうなったポイントを改めておさらいしてみる

1.ボールペン万引き時、ウニが親友ジスクに売られて絶望した後、お茶を振舞いつつ話を聞いてくれた、ヨンジ先生のお礼として、文字通り自家製の餅風呂敷を持って塾の扉を開ける瞬間。
2.後輩ユリとのカラオケ
3.ウニとジスクが塾で久々に再会した時、先生が「切った指を埋めて焼酎飲みながらとぼとぼ彷徨う」みたいな歌を歌うシーン
4.彼氏との120日記念にテープに歌を吹き込むシーン
5.部屋でダンダン飛び跳ねて地団太踏むウニ
6.ウニが先生にスタンダールの『赤と黒』を貸した後、思い出したように階段を駆け上がって先生に抱きつくシーン
7.ウニが先生からの手紙を反芻し、同級生たちをキョロキョロ見回すラストシーン

敢えて改めて書くまでもないような気がするが念のため、上記のシーンは、心のしこりを抱えて苦しんでもなお、ウニがヨンジ先生のサポートも得ながら必死に生きようとする姿勢に関連する。
その、卑小であるが生命力溢れる姿に涙したのが、鑑賞当時の私の心裡であったのだろう、か。


6. 心の傷が市民権を得るのに閾値はあるのか

「心の傷」を描く作品としては、虐待、ネグレクトのような強硬な侵害行為を描くのが典型的と思われる。
他方、虐待、ネグレクト等に及ばない心に対する緩やかな侵害行為は、第三者からして価値あるものになるのか。
少なくとも私には価値あるものになった。
それは、虐待、ネグレクトがなくとも、それに至らない、しかしながら心をチマチマ削るような言動が周囲に溢れすぎているからだ。
Twitterを見ると周囲の言動に心揺さぶられる方々の怨嗟の声が数多くある。
大人な皆さんは、緩やかな侵害行為は上手く受け流しているのだろうが、私自身は着々とスリップダメージが蓄積していく。
たまに何もかも投げ出したい時もある(一応頑張るけども)。
むしろ緩やかな侵害行為の方が巷に溢れているので、本来的には本作のようなストーリーの方が大衆の共感を呼びそうなものだが、
そうなっていないように見えるのは、他者の心を本当に想像する人が限られるからだろう。

ここで更に言うと、ウニのように、心を通わせる存在がいなかった人はどう生きればよいのか。
それでも独力で生きていかねばならぬのである。が、それが難しいこともある。

7. 終わりに

最後に、本作のモチーフになったハチドリをどこまで観客は想像できるだろうか。
私は結構動物が好きなのでハチドリ自体は知っていたが、以下動画にあるような、
 ・鋭い線を描くようなホバリング
 ・安定して蜜を吸えるようにホバリング中も微動だにしない平衡感覚
 ・意外に白く長い舌
 ・見る角度によって光の反射で色を変える頭部
 ・花に嘴を深くつっこむために花粉まみれになる仕草
は初めて知った。かわいいですね。
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*1:本論から外れるが、ウニの耳の裏に出来上がったしこりの摘出手術は舌下神経・顔面神経付近に生じたものと考えられ、摘出手術の際にこれらの神経を傷づける結果として顔面麻痺が現れる。手術部がどこかについては、例えば次のサイトがわかりやすい。顔面麻痺の手術治療 | 脳外科医 澤村豊のホームページ

*2:といっても家族で食べるシーンでもスプーンの使い方が雑だったりするが、チヂミのシーンよりもお行儀が良い。それは父親が同席していることが影響しているのだろう。

*3:といっても、注意深くスクリーンを観察すれば推量に足る素材は数多く散りばめられているので、上記のような観客は想像力に加えて観察力の欠如も嘆かねばならないだろう。また、ここでは全く洗練されていない映画さえも肯定するわけではなく、敢えて明確な描写を用意しなかった本作の展開を評価している点は念押ししておく。コロンビア大学院で映画を学んでいる監督は、割り引いて考えても、少なくとも映画の基本的文法は修めているだろう。