予感の手触り

感想の掃き溜め

東日本大震災が起こったときのこと

今ルックバックについて書いてるんだけれど、派生して東日本大震災が起こったときのことを思い出す必要が出てきた。
ルックバックそのものの読解とは若干毛色が異なるので、別記事として以下にまとめる。


2011/3/11 14:46、東日本大震災が発生した。

当時私は大学4年生で、就活の真っ最中であった。
大学1-3年次は授業にほとんど行っておらずビリヤードサークルの活動に明け暮れていたので、同じ大学に通っていた友人は、研究が楽しかったので参加していたゼミ関連の数少ない人たちだけであった。
そのような状況だったので、就活といっても合説に沢山参加したりOBと話したりするようなことはなく、自分が気になった会社を適当に調べて適当にエントリーしていた位だったと思う。
当時はWEBテストや書類選考が進みつつあったような記憶がある。
私は法律専攻で、もともと研究者になりたいと思っていたので大学院(法科大学院ではなくて研究大学院)への進学を目指していたが家庭の事情で断念し、やむを得ず就活することになった。法律(一番好きだったのは民法会社法だった)が仕事にも関係しそうな金融関係の会社にエントリーし、家のネット環境が良くなかったので漫喫でWEBテストを受けていた。メガバンクやその他都市銀行の書類選考に通ったくらいの時期であった。

少し時を遡り、2011/3/9に、振り返っての整理だけれども余震が発生する。
私が棲んでいたのは1ルーム家賃4万円の、床と壁との間に隙間が空いて外気が入ってくるためとても寒い部屋だった。
余震によって家具が倒れたりの被害はなかったけれども、揺れは普通の地震よりも大きく、普通の地震よりも長かったことだけ覚えている。
余震が起こった日、同じバイト先(映画館)の友人Aと話していた。彼女の実家は原発のある女川なのだが、甲状腺を守るために定期的にヨウ素の錠剤を定期的に服用しているとのことだった。

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2011/3/11、14時過ぎ。
サークルの友人Tと、仙台駅東口の喫茶店でコーヒーを飲んでいた。彼は青森県出身で、仙台市から少し離れた多賀城市というところに住んでいた。私とは違う大学に通っておりキャンパスがそこにあるからだ。サークルの活動場所であるビリヤード場は仙台都市部にあるのだが、彼はお金がないのと、夜2-3時くらいまでビリヤードをやるため帰りの足がなくなるという理由で自転車でビリヤード場まで来ていた。仙台市内から40分位かかっていたのではないか。1度だけ私も自転車で彼の家に行ったことがあるが、国道か県道と思われる広い道路でひたすらペダルを漕ぐあまり楽しくない道中だった。
茶店では、たまたま同時に参加していた就活イベントの感想とか、今後の就活の予定とかについて話、すことはほぼなくてビリヤードの話ばかりしていた。
急に、店内に緊急地震速報のサイレンが鳴り響いた。我々のiPhoneだけでなく他の客のサイレンもなっており、その響きが重なって空気は警告音で満たされた。2011/3/9の余震発生時もサイレンが鳴っていたので、同じ位の規模の地震なのかなと思った。おそらく他の人もそう考えていただろう。
だが実際にはそうはならなかった。突然縦揺れが起こったので震源が近いなと思ったが、天井から吊られている照明の揺れがどんどん大きくなっている。小さい子が漕ぐブランコくらいは揺れていた。
明らかに異常なのでテーブルの下に避難し暫く身を固めていたところ、ふっと店内の照明が消えた。その後も揺れが弱まる気配は全くなく、かなり長い時間身を屈めていた。
体感1分くらいだろうか。揺れが漸くおさまってテーブルから身を出した。iPhoneを見るとネットには繋がっていなかった。友人Aはガラケー(通信は途絶していなかったらしい)を暫く眺め、「震度7出てるぞ!ありえない!」と声を荒げていた(彼の専門は土木工学で地震関連の知識を持っていた)。
数分経って店員から外に出るよう促される。地震発生後はビルの看板が落ちる死亡事故に気を付けるべしという教訓が頭があったので、さきほどの揺れの強さもあいまって店外に出るときはかなりビビっていた。幸い看板崩落は起きていないようだった。
外には数百人、いやそれ以上の人がいた。友人Aと何を話したか記憶がないが、揺れも収まった様子だったので解散することにした。彼は自転車で家に帰ると言っていた。私も自転車で来ていたので、停車していた仙台駅西口に向かった。iPhoneはまだ繋がらなかった。
ペデストリアンデッキを歩いていると、そこここにヒビが入っていて崩れはしないかと不安になった。

仙台駅前から20分程度自転車を漕ぎ、家に到着した。玄関を開けると冷蔵庫やレンジ台が倒れていた。居間への扉に冷蔵庫が倒れ掛かっていて扉のガラスが粉々になっている。
居間に入ると本棚が倒れておりベッドが積み重なった本で覆われていた。幸いにも他には背の低い家具ばかりだったので、それ以外は特に被害はなかったように思う。
ただならぬ地震だということはわかっていたので、浴槽に栓をして水を溜める。まだ水道は生きており浴槽満杯まで水を溜めることができたが、お湯は出なかった。電気もガスもつかなかった。
途方に暮れて1時間くらいぼけっとしていたがライフラインは復旧しなかった。
確かシフトが入っていたのだと思うが、バイト先の映画館に行った。支配人は居たが電気が止まっていたので営業はしていなかった。地震発生時に観客を避難させ、そのままお休みにしたという。
小型ラジオが繋がっており、アナウンサーが「沿岸部に死体が200-300体打ち上げられている」と淡々と報告していた。想像すらできない状況だったが、頭の中で可能な限りその光景を思い描いてみたところ、地獄だと思った。
一人で家に居ても気が滅入るので、一旦帰宅して布団と毛布をバイト先に持ってきて、社員さん、他のバイトと一緒に映画館のソファに座って一夜を明かした。
iPhoneで実家に電話しようとしたが未だネットに繋がらない。公衆電話で連絡をとろうとしたが長い行列が出来ていたので諦めた。
地震発生時は数日経てば元通りの生活が戻ってくると期待していたが、寝る前に聞いたラジオでは仙台市内のガス・電気の復旧には数日かかると言っており、改めて地震被害の大きさを認識する。
iPhoneはとうに電池切れになっていた。

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2011/3/12。
隣の喫茶店の店員も映画館に避難してきており、商品の焼き菓子などを食べて腹を満たした。
まだ電気は復活しておらずiPhoneも充電できなかったが、同じバイト先の仲の良い友人Kの安否が気になる。
とりあえず水は必要だろうということで2Lペットボトル4本に水を入れ、友人Kの家に向かう。
以前飲み会で終電を逃した際に、一度だけタクシーで友人の家に寄ったことがあった朧気な記憶を頼る。
かなり迷ったが幸いにも家を見つけることが出来た。インターホンを押しても全く反応がなかったので、ペットボトル4本を玄関先に置いて無事を祈った。
バイト先に戻る。その後、明るいうちの記憶はあまり無い。

日が落ちてから、バイト先の1つ隣のブロックにあるパチンコ店の電気がついていた。申し訳ないと思いながら店先のコンセントを拝借しiPhoneを充電した。
復活したiPhoneにはLINEの連絡がたくさん来ていた。実家からも。とりあえず無事を報告する。
同じサークルの友人Fが少し先に住んでいるので安否確認のために家に行く。
家での無事を確認できた。彼の家は都市ガスではなくプロパンだったのでガスが生きており、電気も復旧していた。温かい風呂に入れてもらい浴槽で少し泣いた。
不安だったので彼の家で一晩を明かした。

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2011/3/13(だったように思う)
友人F宅の食料が少なかったので、朝一で、仙台市内で唯一営業していたダイエーに向かう。
1-2時間行列に並んでようやくスーパーに入れた。先客がたくさんいたため棚はまばらでカップラーメン等の保存食系は軒並み空だったので、野菜と肉とカレールーを買った。
友人F宅に戻りカレーを作る。
仙台市内から少し離れた実家に住む友人Rと連絡が取れた。彼も無事だという。
一方友人Tとはまだ連絡が取れない。友人Rは車を持っていたので、相談して車で多賀城の友人Tの家まで行ってみようということになった。

多賀城の友人T宅は1階部分が水没していた。彼の部屋は2階だったので水没していなかったが、部屋にはいないようだった。
付近の小学校に避難しているだろうと予測するも、いくつか避難候補先があってどこにいるかは定かではない。
友人Rの車のガソリンも少なくなっているので、行ける避難先は1つだけだった。
友人T宅から同じような距離にある2つの小学校のうち、大きい方に賭けて向かう。
小学校に向かう道中、車道の右左に車体がベコベコになり泥で汚れた車が多く積み重なっている。多賀城は郊外のためカーディーラーが多く営業していたエリアだった。工場が多く立地する沿岸地域でもあった。
小学校について体育館で暫く友人Tを探したが、見つからなかった。
市内の友人F宅に戻る。友人Rはカレーを食べて実家に帰宅した。

夜になって友人Tが現れた。話を聞くと我々が賭けたのとは別の小学校に一時避難していたが、このままではいつ復旧するかわからないので実家のある青森まで自転車で行こうとしている、その途中に寄ったとのことだった。
仙台から青森市内までは車でも5時間位かかるし、今は3月で雪も降っているので絶対無理だと止めたのだが、友人Tはカレーを2杯平らげ、シャワーも浴びずにママチャリに乗って去っていった。

その日は福島原発が一部メルトダウンしており、水素爆発も発生したという報道もあった。福島原発が完全にメルトダウンした場合、100km圏内では生活が難しいだろうとのことだった。
仙台は福島原発から丁度100km程度の位置にあり、完全にメルトダウンしたらもう仙台にはいられないだろうな、就活も大学生活も無理だろうなと思い、深く絶望した。
中々寝付けなかったが暗い部屋の中で色々考えていたらいつの間にか寝ていた。

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2011/3/14
友人Rから連絡があり、彼の父親の実家である北海道に逃げる、父親の会社の車を使って青森空港まで行って飛行機に乗るが一緒に来ないかとのことだった。
友人Fと私は北海道出身だったので、ありがたくその提案に応じることにする。
色々準備があるとのことで出発は夕方になった。
今入っているガソリンの量が少なく、仙台市内だとどこもガソリンを買えないので、仙台から山形に西進し、北に進路を変え秋田を経由して青森に向かうルートを取った。日本海側は津波被害がないので太平洋側よりはガソリン調達が簡単だろうという見立てだったのだろう。
車に乗り込んだ後の記憶は特にない。
無事青森空港に到着し、飛行機に乗って新千歳空港に到着する。当時は貧乏だったので航空券代や北海道に到着した後の交通費等を友人Rの父親に借りる。
新千歳空港から札幌に移動し、友人F・Rと別れる。札幌市内は震災の影響は全くないようだった。
札幌から電車で1時間位の距離にある実家に到着する。私が戻って来られたことに驚いていた。

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その後は、父親になけなしの金でスーツを買ってもらい(うちは自営業でとても貧乏だった)、地元銀行の面接を受けて内々定をもらった。
仙台に戻ってからは、地震で中断していた第一志望の企業の採用プロセスも再開し、無事内々定をもらった。

大学を卒業し、新入社員として仙台支店に配属された。
休日には会社の人の勧めもあって震災復興活動に参加し、陸前高田あたりの除石作業をしてみた。
その最中には重いものを持ち上げたりして汗だくになって、新入社員として仕事で価値の出せない自分のアイデンティティを少し回復したりもしたけれども、
帰宅して冷静になってみると自分が1日かけてした作業はショベルカーを使えば一発で終わることに思い至り、自分のやったことは無駄だったんだ、結局自分の脆い自我をようやっと繋ぎとめる位の利己的な経験にしかならなかったんだ、と思って無力感に支配されてしまった。

冒頭で触れたバイト先の友人Aは、実家の女川に住む親戚や学生時代の同級生が津波で死んだようだった。こういう出来事には何ら伏線みたいなものはない。
その後、震災復興活動には参加しなかった。

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私自身も、恐らく私の周りにいる震災経験者も、実際に津波被害に遭われた方々、そして亡くなってしまった方々のことを思って、今まで自身の震災の経験を語ることが憚られてきた。
彼らに比べれば私の受けた辛さ(被害とも形容できない軽い出来ごとだ)を自分の胸の中から表に出すことも申し訳なく思ってしまう。
先日、濱口竜介監督の「なみのこえ 新地町」を見たが、津波に一度飲みこまれたものの運よく陸に打ち上げられて一命を取り留めたおじさんが、「一つ何か違っていれば死んでいた」と語っていた。
彼は直接この言葉を口にしてはいなかったものの、恐らく「震災を生き残ってしまった」という思いも抱えているのではないかと思う。
彼自身の経験も勿論相当凄惨ではあるけれど、震災の当事者のことを慮らざるを得ないほど、震災は大きすぎる事件だったということだろう。