予感の手触り

感想の掃き溜め

藤本タツキ「ルックバック」

『ルックバック』公開当時の反響は、私が敢えて描写するまでもなくそれはもうすごいものだった。
私もいくつかのシーンで泣いた。

読後の感想じみたことを今後の自分のためにも残しておきたいという思いがあるが、一方でこのタイミングで「この漫画は傑作だ!」と素朴な感想だけ記録に残しても仕方がないことは十分承知しているので、色んな感想/考察記事を読んでみてあまり触れられていなかったポイントを交えて、(考察ほど大それたものではないが)自分なりの感想を残してみることにしたい。
因みに7万字弱あります。


冒頭から断っておくが、これから書く感想はしつこいくらいに原典『ルックバック』(以下、「本作」または「LB」)の描写を参照する。
議論の中で本作のコマを参照することになるが、これはエビデンスとして活用するものであり引用の範囲を超えないように留意している。引用部分の著作権は当然のことながら著作者である集英社に帰属する。もし(こんなマイナーブログを見る可能性は限りなくゼロに近いと思うが)集英社さんが本記事を見て頂く機会があり、著作権侵害ではないかと考えた場合にはまずご一報頂きたい。コマを削除し記事を再構成するか、記事自体を削除する等で対応する。

検討の方向性

以下、本作の感想をまとめる方向性を最初に明示しておこう。

まず、本作から私が読み取ったことは、
(I)藤本タツキ(以下、本作中の藤野と紛らわしいので少々馴れ馴れしいけれども敢えて下の名前で「タツキ」)が、
(II)罪悪感を抱えながらもなお、
(III)想像力を頼りに生きることを決意する
という宣言だ。
「あれ、それくらいのメッセージであれば誰でも読み取れるのでは」というツッコミもあるかもしれない。また、「いや、そもそもそんなメッセージは込められていない」という批判もあり得るだろう。
ただ、本作の描写や構造をつぶさに見てみると、上記の宣言をするために数多くの要素が散りばめられていることに気づく。抽出するメッセージとしては凡庸かもしれないけれども、それがどのように表現されているかも含めて詳細に確認しておくことは、本作が今後のタツキ作品の中でどのように位置づけられるか等を考える上でも有用なのではないかと思い、以下にその内容をまとめようと思っている。
そして最後に、『ルックバック』という題名に込められた意味を、今世間で論じられているものよりも(といっても、私はインターネット上の全ての本作評を見たわけではないので、あくまで私が確認できる範囲で)、もう少し細かく考えてみたい。

メッセージの抽出過程は追って説明することとして、ここではその際に参照する要素についても明示しておく。
以下検討するに当たり、私は
(A)本作のストーリー・物語
(B)本作の描写・表現
(C)作品外の材料
を基礎とする。
少し説明を加えておくと、(A)及び(B)はいずれも本作を構成する要素であるが、(A)は藤野・京本を中心とする一連の出来事や文脈に注目するのに対し、(B)は(A)から独立している作中の描写に加え、効果線やオノマトペ等、マンガ的表現に注目するものである。
また(C)は、タツキ及び本作関係者のインタビューや、他作品のあとがきにおけるタツキのコメント等を本作の解釈に活用するものである。

そして、検討する内容を整理するために、メッセージ及び参照要素を軸にマトリックスを作り、検討した内容をそこに配置する方法で議論をまとめていこうと思う。
具体的には、以下のマトリックスの灰色の箱に検討ないようを随時書き込んでいくことで私の考えをまとめていくことにしよう。


上記枠組みを基にした目次は以下の通りである。

なお、以下の検討においては本作だけでなくタツキの過去作品である『ファイアパンチ』(以下、「FP」)や『チェンソーマン』(以下、「CSM」)における描写も引用する。引用するコマは出典(Source)を明示するが、以下では「作品名-巻数-ページ数」という形式とする。また、LBは1巻のみのため巻数表記は省略する。加えて、ページ数はKindle版を基礎とすることとし(従い、紙版とはページ数が異なることに留意していただきたい)、複数のページを参照する場合はスラッシュで区切る。
この規則に従い、例えば、CSMの7巻の30ページ及び105ページのコマを引用する場合は、「CSM-v7-p30/105」と表記する。

(II)罪悪感

私が「罪悪感」というキーワードを本作から抽出した理由を詳述するに当たっては、本作全体で描かれる藤野・京本の関係性を細かく見ていく必要がある。
しかし、追ってその過程は詳しく説明するけれども、それには多くの紙幅を費やす必要があり、罪悪感というキーワードに到達するまで少し時間がかかるので、まずは先行して本作における罪悪感の描かれ方について確認してみよう。

(II)①罪悪感:4コマの内容

まず(A)ストーリーの面からは、京本の葬式に参加した藤野が、京本の部屋の前でかつて自分が書いた4コマを発見し、その4コマによって京本が部屋から出たことが京本の死の原因であると自責するシーンが勿論これに含まれる。このシーンでは、藤野は自責の後に「なぜ漫画を描いていたのか」「描いても何も役に立たない」と無力感もセットであることに留意したい。
次に、京本名で描かれた「背中を見て」の4コマに注目する。多くの人が指摘するように、作者名として書かれた「京本」の字は小学生時に連載していた4コマにおける「京本」の字と異なるが、それに加え、藤野と京本の過去の4コマと比べると以下の点を指摘できる(んなお京本は4コマにおいて題名と作者名を除いて字は書いていないので4コマ本編は割愛する)。

  • 「背中を見て」では「京」の口の部分が四角に書かれているが、京本の過去の4コマにおいては丸に近い形で描かれている。「課」の「田」の部分も同じく丸に近い形で書かれているので四角を丸に書くのは京本の手癖と思われる。
  • 一方、藤野作「出てこないで!!」(仮題)において「本」の字(特に4コマ目)は上に突き出す縦棒の部分が長く、「背中を見て」の「本」の字と近い(少なくとも京本の字よりは藤野の字の方が近い)
  • ただし、「出てこないで!!」における「京」の「小」の部分は跳ねていないのに対し、「背中を見て」ではきちんと跳ねているため、「京」の字に限っては京本の字とも藤野の字とも異なっている。
  • 藤野の過去作「ファーストキス」「奇策士ミカ」「真実」の作者名の字と、「背中を見て」の台詞における「藤野」の字が似ている。また、「野」の「田」の部分は丸ではなく四角に近い形で描かれているので京本の手癖が感じられない。
  • 「背中を見て」1・3・4コマ目における小さい「ゃ」は、「ファーストキス」1コマ目、「奇策士ミカ」4コマ目、「真実」2・4コマ目における「や」と同じく、2画目がやや外に離れており「か」に近い字になっている。さらにこれは、タツキが「長門は俺」名義で描いた「ムリゲー」第6話の「や」の字に近い。
  • 「背中を見て」の「を」の字は、「ファーストキス」1コマ目、「奇策士ミカ」1コマ目、「真実」4コマ目、「出てこないで!!」3コマ目における「を」と似ているように見える。
  • 「背中を見て」3コマ目における「先」の字は、「奇策士ミカ」3コマ目、「真実」1~4コマ目における「先」同様、5画目は真っ直ぐかやや左下に傾く形で書かれ、6画目は縦線が短く末尾は跳ねない。
  • 「背中を見て」3コマ目の「こ」は、「奇策士ミカ」1・3コマ目及び「出てこないで!!」1~3コマ目同様、1画目はきちんと跳ね、2画目はフラットかやや下に丸みを帯びる形で書かれる(なお「出てこないで」2コマ目右に見られるように1画目を跳ねない例もみられるが、他全ての「こ」は跳ねているので割合としては跳ねている方が優勢である)。
  • 他、「れ」「ね」は藤野の字に似ているように見える。

上記より、「背中を見て」は藤野作である可能性が高いものと思われる。また「や」の字の特徴から、藤野とタツキの字は同じ書かれ方をしている。

「背中を見て」が藤野作だとすると、1コマ目の違和感あるセリフにも納得できる。私が気になったのは通り魔の「斬ってやる!」というセリフであるが、ここで描かれている凶器はつるはしであるにも関わらず、危害を加える意思表明として「斬って」という表現が採用されるのは違和感がないだろうか。つるはしには刃が無く斬撃を加えられる構造にはなっていない(百歩譲って斬撃を加えられるとしても、その爪の先を絶妙な力加減とコントロールで対象部に沿わせるように素早く移動させるテクニックが必要だと思われるが、そのような用途はイレギュラーである)。
つるはしの構造に忠実になるとすれば、通り魔のセリフは「刺してやる!」がより適しているが、これでも尚違和感がある。凶器が包丁ならまだしも、つるはしで危害を加えようとするとき「刺す」という具体的な行為そのものを示す表現を使うだろうか。より被害状況に直截的に、「殺してやる!」というセリフが最もしっくりくるように思われる。
「斬ってやる!」というセリフは、藤野が最初に山形県美大で通り魔事件が起きたことを知ったテレビ報道で、「斧のようなもので」「切りつける事件」という内容と符合する。藤野の想像力はテレビ報道の内容に影響を受けているように見える。
更に、藤野は自然なセリフ回しを重視した表現である「殺してやる!」という言葉をどうしても採用できなかったのではないか。自分のライバルであり親友でもあった京本の、自らが招いたと曲解している京本の死を、藤野は直ぐには受け止められないはずである。京本の死を受け入れられない藤野は、例え4コマの中であろうとも「殺してやる!」という直接的な表現を文字に起こすことは果たして出来なかったのだろう。

次の疑問は、4コマ目でなぜ藤野はつるはしを背中に受ける必要があったのだろうか、ということだ。本作を素直に読むと「背中を見て」は京本が描いたと誤認させるような描写となっているが、その認識に基づくと、京本が藤野に助けられた感動を描くのであれば最後のコマでなぜ命の恩人である藤野の背中につるはしを振るう必要があるのかは上手く説明できない(寧ろ恩人の背中につるはしで傷をつける描写は普通しないのではないだろうか)。
「背中を見て」が藤野作と考えるとすれば、つるはしの描写は4コマの中でオチを付けるため、という解釈がまず成り立つ。更に、よりメタ視点に基づいて『ルックバック』という作品名に複層的な意味を持たせる仕掛けとして、「背中を見て」の最終コマで藤野の背中につるはしがささる描写が導入されたとの読み方も可能だろう。
私はこれらに加えて、藤野の心境から、つるはしは彼女の罪悪感の象徴であると解釈する。藤野は、自身の書く4コマにおいて自分につるはしを刺さざるを得なかった。バーチャルにではあるにせよ、自分を傷つけないと割に合わないと藤野は感じた。

では藤野が抱えてしまった罪悪感とはどのようなものか。
上記で、藤野は京本の死に自責の念と無力感を抱いていると書いたが、本作の描写はかなり細かいので、罪悪感のより具体的な内容を考えることが可能である。
そのためには、本作のストーリーを一通り確認する必要があるだろう。

(II)②罪悪感:藤野と京本の関係性

では本節における本題であるストーリーを細かく見ていくが、その前に大枠の構造を以下に図示する。

本作における重要なイベントは、藤野と京本が出会う小6の卒業式、藤野と京本が別の道を進む高3卒業後の連載開始(を打診された)時、そして京本が襲われた通り魔事件である。そして、節目には4コマ(カッコ書きで作品名を特定している)が遣り取りされている。
なお、京本の葬式に参加した藤野が破いた「出てこないで!!」の4コマが渡った先である幼少期の京本のいる世界は、上図において「世界B」と表現している。
この4コマが渡った先の世界は、藤野の妄想であるとする説と、並行世界である説があるように見受けられるが、この解釈は後で行うことにしてここでは一旦問だけ立てておく。

問.世界Aと世界Bはどのような関係か。

以下で説明する際は一旦「世界B」、そこに登場する藤野・京本はそれぞれ「藤野B」「京本B」と呼ぶことにしよう。そして、本作冒頭から描かれる世界は「世界A」、そこに描かれるのは「藤野A」「京本A」として言及する。

上記の構造を大枠として、以下本作のストーリーと、藤野・京本が互いに抱いている感情を確認していく。

まず本作は、クラスのみんなを4コマで笑わせる藤野の描写からスタートする。藤野は、4コマを5分でちゃちゃっと描いたこと、それにしてはウマく描けたことに触れる。ここから、藤野は、自分の画力への自信は当然ながら持っているとして、自分の本当の実力はこんなものではないと嘯くような虚栄心と、本気の出来ではない4コマでもクラスメイトは満足しているという侮りを持っていることがわかる。
そんな藤野は、画力以外にも運動神経も持っており、クラスの人気者になれるようなコミュニケーション能力があることも伺われる。端的に言って藤野は才能と可能性に溢れている人物として描かれる。
そんな彼女は当然ながら自信があり、小学生特有の軽薄さで以て他者を見下すので、引きこもりの京本を安易に「軟弱者」と詰る。もっと簡単に言うと京本をナメているのである。
しかし、次の学年新聞では、リアリズムを備えた京本の画力に圧倒され、「はぁ???」という顔になって呆れてしまう。前までは藤野を持て囃していたクラスメイトも藤野の絵をフツーと評して手のひらを反す。藤野は、ナメ腐っていた相手である京本から、自身の存在意義である画力の卓越的地位を奪われる。
帰り道、精神の平静を保つために藤野は過去自分が浴びた賞賛の言葉を回想するが、隣の席の男子による、藤野自身によって誇張された「フツーだなぁ!」というアイデンティティ剥奪の言葉に落ち込む。

次のコマは注目すべきポイントだ。
藤野は田植え機が、恐らく稲の苗を植えている光景を見て、藤野が学校に行っている間に京本は絵の練習をしていたことに思い至る。これは、農業が「種まき→苗の育成→田植え→苗の成長・豊熟→収穫→・・・(繰り返し)」と、成果が出るまで多くの時間を費やしているプロセス、というか原理を想起しているためであろう。それをアナロジーとして、京本の卓越した画力は、京本が学校に行かず多くの時間を投入して培ったものであることに想像力を飛ばしている。
大事なことなので強調するが、藤野はここで自身の想像力を駆動させている。

次のシーンでは、藤野は口を尖らせて悔しそうな顔をし、駆け出して「4年生で私より絵がウマい奴がいるなんてっ 絶っっ対に許せない!」と叫ぶ。ここでは右腕にあるような漫画的ブレや、紙の部分に見るように効果線の表現が見られるが、面白いのは藤野が比較対象を「4年生」に限定していることだろう。「小学生で私よりウマい奴」がいることにまで彼女は悔しさを感じてはおらず、あくまで「4年生」で自分より画力の高い奴がいることが憎いのである。5年生や6年生に自分より絵がウマい奴がいても、恐らく「いや私より高学年だし絵が上手いの当たり前でしょ」と反論することで、彼女は自我を保つ。この視野の狭さ、矮小さは小学生らしくて可愛い。

ここから、机に向かう藤野の背中を中心としたコマが連続する。本作でいうところの「修行」のシーンであるが、普通の漫画ならもっとドラマチックに描くところを、タツキは、コマの中心にほぼ姿勢の変わらない藤野の背中を据えながら、窓の外の風景の移ろいなどを通して時間推移の表現を細やかに描写するに留める。
画力もそうだが、一般に特定の能力を向上させるには近道はなく、反復練習とそれを支える多くの時間が必要となる。それは泥臭い作業であり、現実としては物語的抑揚は無い。本作でも描かれているように「とにかく書け!バカ!」なのである。それをタツキはFixしたカメラの視線と、Fixした藤野の背中で表現した。
それだけでは藤野が京本に勝つために費やした時間がどの程度か分かりにくいので、タツキは時間を物の変化に託して表現する。具体的には、服装(長袖/半袖、長/半ズボン)、参考図書の数、カレンダーの日付、窓の外の景色の移ろい、使われる家電(ストーブ・扇風機)、積みあがるスケッチブックの数で描く。
後から分かるのだが、4年で京本の絵に圧倒されてから6年で京本の絵に敵わないことを悟るまで2年の月日が流れていることを踏まえると、藤野の京本打倒に懸けた執念の強さが分かるが、本作における描写はかなり抑制的である。通常の漫画のように強調して描かれることはなく、現実的に、リアルに、泥臭く「とにかく書く」事のみが描写される。

そんな努力を惜しまなかった藤野だが、結局京本には敵わないと悟って、無表情に、小さく「や~めた…」と言って漫画を書くことを辞めてしまうが、このようになるに当たり京本の絵がウマ過ぎることだけが要因ではないことに留意する必要がある。

まずクラスメイトからの心無い言葉がある。
藤野はここでは、クラスメイトのいる世界では漫画を書くことが異常であること、クラスメイトと自分が全く違う世界に居ることを感得する。「中学でも絵描くの?」と問われた藤野は「え?」と驚くが、クラスメイトにとって漫画を書くことは子供がすることという位置づけであるのに対し、藤野にとっては自分の存在意義を獲得する行為であるため年齢によってその行為の重要性に変化はない点に大きな断絶が見られる。クラスメイトは中学で絵を書いていたらオタクだと思われてキモがられる、と偏見を藤野にぶつける。この際、クラスメイトは「よっしーもミホリンも言えないでいる」という同調圧力を駆使しており、また自分はどうこう思うというロジックではなく、「オタクだと(他の人に)思われる」と他者視点で藤野が軽蔑されるというロジックを採用していることに彼女の(そしてそれが化体する大衆の)主張の厭らしさを感じることが出来る。
ここで藤野は、大衆の醜悪さに触れることになった。

ただ藤野が筆を折る要因はそれだけではない。現に、クラスメイトからの心無い言葉を浴びても尚、家では4コマを書き続けている。その最中、お姉ちゃんからいつまでマンガを描いているか問われ、暗にマンガを辞めるよう言われる。お姉ちゃんは内申書に書けるからとカラテ教室に一緒に行こうと誘うが、その裏にはマンガを書くことは内申書に書けない、すなわち大衆からするとマンガを描くことは価値がないことを示唆する。
藤野は大衆の価値観など顧みないことはクラスメイトの一見でわかっているので、これに対しては「あっそ」と軽くあしらう。より彼女に効果的だったのは、母さん達が彼女のことを心配しているという姉の言葉である。「ひ~!へいへいへいへいへい」と軽めの応対の後の沈黙と、「あんたさ…アンタいつまでマンガ描いてんの?」とその僅かな間を挟んだ「あんた/アンタ」の連続使用により、藤野がマンガに入れ込んでることにある程度理解を示しつつ、父母が(そして姉自身も)藤野を心配していることを背景にマンガから足を洗うことを勧めるという、クラスメイトよりは藤野に共感的な態度を見せている。また父母は、決して藤野に直接的に「マンガを辞めなさい。勉強しなさい」とは言わないような関係性であることが姉の言葉から推察されるが、父母も姉同様に他者の大事なものを安易に否定しないという理性を持っている。この共感的態度から発される懸念の言葉によって、藤野は4コマを書く手を止めてしまう。

そのような背景がある中で、藤野は6年生のある時、京本には勝てないことを悟ってしまうが、この時藤野は1度目に見せたような「はぁ?」のような顔はしない。修行している2年間、学年新聞で京本の画力を見せつけられていたから当然だろう。一々リアクションする精神はとうに失った。無表情に、そして小さな声で、彼女は2年という膨大な時間を費やしたマンガを諦めた。彼女のアイデンティティが一つ喪われた。藤野はここで京本に一度殺された。
藤野は絵の才能の他にコミュニケーション能力と運動神経という才能を持っていたので、マンガを辞めた直後にクラスメイトをアイスに誘い、クラスメイトはそれに喜ぶ。2年間、教室の休み時間で机のまわりにクラスメイトが集まっても絵を描き続けた藤野にいきなり誘われても、悪い顔をせず寧ろ喜びを露にするクラスメイトの態度に、藤野のコミュニケーション能力の高さが裏付けられている。
運動神経の才能はカラテに活かされ、藤野を心配していた家族とは団欒の時間が戻る。
その代償として、今まで膨大な時間を費やした成果物としてのスケッチブックはゴミと一緒に捨てられてしまう。4コマ用紙が滑り落ちる。藤野の元からマンガが零れ落ちて一旦失われる。

この通り、藤野がマンガを辞めたのは、単に京本の画力に敵わないことを痛感しただけでなく、その前にある、クラスメイトからの偏見(ただしこれ単体ではマンガを辞めない程度の破壊力であるが)と、家族からの自身の身を案じた上での注意が折り重なった複合事象によってである。恐らくこの3つの要素がどれか1つでも欠けていたら、藤野がマンガを辞めることはなかったのではないか。
結果として藤野はアイデンティティを1つ喪うが、それは「たまたま」上記の条件が揃ったからである。
そして、藤野が他の道に進めたのも、彼女が他の才能を持っていた「偶然」に助けられたものである。


卒業式後、藤野は担任の先生に、卒業証書を京本に届けるように頼まれるが、その際の反応は「はあ!?え~・・・!なんでですかぁ?」と、面倒さはあるとはいえ過剰なように思える。ただ、上で見た通り藤野は京本に一度殺されていることを考えるとその反応になるのも止む無しと思われる。

結局藤野は渋々京本に卒業証書を届けに行く。
「たまたま」奥から音がして誘われるように家の中に進んだ藤野は、自分が捨てたのよりも極めて大量のスケッチブックの山を認める。彼女が捨てたのは精々一山だが、その10倍以上の山が京本の画力を支えていたことを理解し、また無表情になる。
(本論とは関係ないが、卒業式での藤野の服装は、デンジと映画デートに行くマキマととてもよく似ている。タツキは暗い色のワンピース+明るい色のカーディガンの組み合わせが好きなのだろうか。または女性の晴れ着はそのセットだと思い込んでいるのか。)

4コマ用紙を見つけて藤野は京本を題材に絵を描く。自身で「なにしてんだ私・・・」と独り言ちているように、この4コマを描いた意味はなんだろうか。まず4コマの内容を改めて見てみると、かなり露悪的ではないかという感想を持った。ネタになっているのは京本だが、彼女は少なくとも4年から6年までの約2年間は不登校になっている。そのような京本に対し、「引きこもり」という表現を用いた上で、それを競技化して描くというのは正直かなり性格が悪い。何故なら京本はそうせざるを得なくて家に籠っているのであり、やりたくてやっているわけではないが、競技として描くということには引きこもりを意図的に行っているように茶化す精神が見て取れるからである。
更に、大差をつけて世界大会で1位となっている京本は、実は白骨化するまで死んでいるというオチも酷い(いや面白いのだが、その発想に至る心のありようが酷い)。引きこもり世界大会で途中経過1位を誇る京本の偉業は、彼女の意思によってではなく、もはや意思を失った死体であることによって成し遂げられている。周囲の声援や罵倒とは全く関係なく、京本は単に部屋で野垂れ死んでおり、孤独である。外界と京本のどうしようも無い断絶をオチに持ってくる藤野の思考はかなり酷い。
4コマを描いた後の藤野の独り言は、ネタにした京本にこの4コマが届くはずがないのに何無駄なことしてるんだという思いに加えて、何故京本に対してここまで酷いことを描いているんだ、という思いもあるように思われる。
ではなぜ藤野はここまで酷い内容の4コマを京本を題材に描けたのかと言えば、藤野は一度京本の画力によって殺されているからである。だから藤野は4コマの中で京本を殺した。藤野の武器である独創性とユーモアによって。この4コマは藤野の京本に対する復讐である。
この4コマの露悪的な内容から翻って考えてみると、藤野は単に京本に画力に負けたことだけではなくて、心が折れたその他の要因、すなわちクラスメイトの偏見に対する嫌悪や、心配する家族からの忠告に対するやり場の無さを一まとめにして京本への憎悪としてぶつけているようにも感じられる。その意味で藤野の思いはいちゃもんに近い部分もある。
その4コマが図らずも、ドアの下の僅かな隙間をすり抜け京本に渡ってしまう。「あっ ああア!?」という自身の驚きの声に反応する、部屋の中からのかすかな「えっ」という声によって、京本に復讐の4コマが届いてしまったことに焦り、藤野は卒業証書を一方的に置き去り、京本家を後にする。
俯くその顔は口を尖らせ悔しさと焦りを同時に孕む。画力で勝てない藤野は4コマでささやかに復讐を試みたが、それは自分でも無意味なことだとわかっていた。果てはそのダサい4コマが京本に見られてしまった。藤野は屈辱の極みにここで至っている。

だが、その後駆けてくる京本の姿を見た藤野は不思議と冷静になる。京本が見たままの挙動不審な引きこもりであったことで、画力以外だと自分が勝っていると安心したからではなかろうか。自分より劣っている他者からの言葉に対し、人を下に見る傾向にある藤野は努めて冷静に振舞う。4コマ連載を辞めた理由を京本に聞かれても、漫画の章に応募するためにステップするために辞めたと言い張るが、このとき「ていうか まあ… あの ていうか」と言い訳を探すために頭をフル回転させたり、「やめたって感じだけど?」と若干高圧的になるところに藤野の自我が感じられて可愛いらしい。
そして、「みたいみたいみたい!!」とテンション上がってプライベートスペース関係なく詰め寄ってくる京本に対し、作品は完成しかけているし実質下書きとペン入れだけと強がる藤野も微笑ましい(ネームすら出来てないのに何言ってんだというのは当然として、「だけ」とか言っているものの寧ろ下書きとペン入れ作業が辛いことに気づかないのも強がりポイントが高くて藤野らしい感じがする。実際下書きとペン入れには京本との共作でも1年かかるのだ)。
その後、雨の中歓喜の舞を踊りながらびしょ濡れになる藤野の描写は勿論素晴らしい。
この時の藤野の心境は、尊敬していた人から尊敬されていたことで嬉しい、という表現では単純に過ぎる。上で確認した通り、藤野は一度京本に殺されている。その前にクラスメイトの偏見や家族の心配に晒された藤野は、その恨みもまとめて京本に抱いていたように思える。藤野にとって京本は、卓越した画力を備える尊敬の対象としてだけではなく、嫉妬の対象でもあったし憎悪の対象でもあったし被害者意識もあったのではないか。そのような複雑な感情を抱いていた者から、全く雑味の無い賞賛の言葉を大量に浴びせられたからこそ、藤野は大雨の中激しく舞ったのであったし、帰宅して着替えもせず濡れたままでメタルパレードのネームを描き始めたのであった。

なお、振り返ってみると、京本も確かに藤野に影響を受けていることが4コマの描写から分かる。後に、町に繰り出した帰りの電車で、京本は人が怖くなって不登校になったことが語られる。京本は人が怖い。だから4年時の4コマでは、本来生徒が描かれるべき学校に、まったく人が居なかった。その理由は題名にあるように「放課後」という設定で正当化されているが、より本源的には京本が人間に対する恐怖心を持っており人間を描くことが出来なかったことによるものだろう。
そんな京本が、6年時の4コマでは、祭りの人込みという集団化され個別性を失った形ではあるが、人に対する視線を回復している(個人と対峙するまでには精神が回復してはいなかったが)。これは、藤野の4コマが人間の感情や仕草に注目し、典型的な話の筋を外す技術(先生をお父さんと呼ぶあるあるネタに面白さを与える独創性)を獲得していることを経由して、人間に対する関心(というか藤野に対する興味)が影響しているように思われる。この時、京本は人間を描こうとするが恐怖心がありどう頑張っても祭りの人込みという顔が曖昧な対象しか書けなかったが、一方で物の描写力は向上している。4年時に描いた放課後の教室は主に直線で構成されてパースに従った描写をすれば良かったが、6年時には、人体、植物といったより複雑な対象が描けるようになっているし、旅館の描写も校舎に比べてかなり細かい。屋台の軒先に掛けられる明かりの曲線・曲面も描けるようになっている。全体として、京本の絵は複雑性が増している。


中学に入ってまた修行。小学生の時はクラスメイトがまわりにいたが、もはや藤野は同級生と真逆の方向へ廊下を歩く。大衆的価値観とは決別していることが伺われる。
小学校の時と同じく、修行のシーンでは藤野の背中を眺める視点で固定されているが、時間の流れの速さが小学生時と異なることに注目したい。
小学生時は、4-6年の最長2年の経過が8コマの背中のショットで描写される。
一方、京本が合流した中学生時では、藤野の背中(若干拡張して最後の藤野不在の机のコマや、京本と並んでのコマ、教室で後ろ上からのコマもこれに含めるが、本屋で京本と本を選ぶコマは含んでいない)は合計10コマで描かれる。集英社に持ち込むまでの時間は1年間であるから、単純計算で小学生時の2倍超の密度である。そのため、毎週発刊されるジャンプであろうと思われる冊子の増え方が小刻みになっている(1冊増えれば1週間、2冊増えれば2週間経過)。
これは京本との共作によって藤野が過ごす時間が豊かになっていることを示すものであると考えられる。

因みに、京本が藤野に「おかえりなさい!」と語りかけるコマの次のページの下のコマで、ベッドの他に布団一式が置かれていることから藤野・京本の家庭環境に想像力を及ぼすことは可能であろう。
前に見た通り、藤野の父母は藤野に対し直接「漫画を辞めて勉強しろ」と要求するような短絡さは無く、心配しつつも藤野のやりたいことをやらせる包容力を持っている。藤野が一度漫画を辞めて空手を始めたりして父母の望む生活となったにも関わらず再び漫画を描き始める藤野に対し、本心から言えば父母は以前よりもまして藤野のことを心配していただろうが、父母が再度心配を口にするような描写はない(本作の本論から逸れる描写であるため省略されているとも考えられるが、少なくとも藤野は迷いなく漫画に打ち込んでるように描写されており、父母の心配は既に漫画の本筋ではなくなっている)。京本が家に来るようになってからは、(もしかしたら藤野の要求もあったかもしれないが)京本のために布団一式を買う配慮さえ見せている。藤野の父母は藤野が漫画を本当にやりたいことだと理解を示し、その仲間である京本にも支援の手を伸ばす寛容さを持っていることが伺われる。
また京本家については、本作全体を通じてほぼ描写がないが、いままで引きこもりだった娘に一緒に漫画を描く友達が出来たこと、外に出ない娘がその友達の家に入りびたるようになったこと、果ては泊りがけで漫画に打ち込んでいることを肯定的に評価していたのではなかろうか。無関心なだけでは?と思われる人もいるかもしれないが、既に描写されているように京本には大量のスケッチブックを買ってあげており京本のやりたいことを尊重しているし、後に描写されるように大量の本(漫画だけではなく絵の描き方に関する本も含まれるだろう)が100冊単位で京本に買い与えられていることも勘案すれば、京本の家族が京本を放置しているわけではなく、寧ろ積極的に京本を支援していることが分かる。京本の家族が京本を引きこもりから脱させようとする描写もなく、京本家も京本に対する寛容さを持ち合わせていることが伺われる。
そして、藤本家も京本家も娘のやりたいことを応援する点で同じであるから、藤本家の父母と京本家の父母はそれなりに交流していたのではないかとも思われる。娘が相手の家に泊まる際は夕食も振舞われているだろうが、娘のやりたいことを尊重する京本家の父母が、藤本家の父母に夕食をごちそうしてもらったことや布団一式を買ってもらったことについて感謝の意を述べないはずはないと思われる。
藤野の部屋に布団一式が描かれていることから、藤野と京本を取り巻く家族の状況まで想像力を及ぼすことが出来る。


1年間の修行を重ねた藤野と京本は果たして準入選となり賞金100万円をゲットする。二人が喜ぶ姿はコンビニの外から窓越しに、無声で描かれるが、普通の漫画だと下からあおり気味の画角で、大声出してジャンプしながら「やったー!」と叫ぶ二人を描くだろうが、本作ではそんな漫画的な表現はされない。
家を買える(主観)程の大金である10万円を握りしめ、二人は余所行きの恰好に着替えて町へ繰り出す。余所行きの恰好?そう、我々は気づくことが出来る。藤野がGジャンを羽織ったのは誰しも確認できるだろうが、Tシャツをジーンズの中に入れてハイウエストにするとともに、裾をまくり上げてスマートな感じにしていることに。京本が一旦家に帰ってボトムスを長めのスカートに着替えていることに。(藤野が「これから町の方に遊び行こ!」と言っているので、お金を下してから町に行くまでは一日の出来事だろう。)

町からの帰りのシーンは決定的に重要である。
ここで京本は、人が怖くて学校に行けなくなったという不登校の理由を語るとともに、町に遊びに行くのが怖かったこと(それは、漫画を書きに通う藤本家よりも多数の見知らぬ人人人が溢れかえる場所に赴くこと)、それでも藤野と一緒ならと決意して外に出てみたら楽しかったこと、当初は暇つぶしだった絵を描くことを肯定出来るようになったこと、そして、部屋から出してくれた藤野に感謝していることを、素直に述べる。
それに対し藤野は無表情に、淡々と10万円(京本が家を買えると思っている金額)を御礼にくれればよいと返す。
相変わらず藤野は、自分に対する好意が示されても飄々と返す。その心は、あの雨の中の舞同様に舞い上がっているはずだ。藤野はそれを表には出さない。内面と外面の捻くれがある。
それに対して京本は、藤野と初対面してオタク特有の圧力と早口でまくしたてたように、自分の心を素直に言葉にして伝える。内面と外面がストレートに接続している。
屈折した藤野と素直な京本の対比が面白い。

その後、取材旅行の成果を作品に取り入れて二人は追加で6本の読切を仕上げる。この約2年の出来事を本作では2ページしか描かない。なぜか?重要なことは読切を仕上げてきたことではなく二人の関係性であり、それが完成していることは初回読切作品を作り準入選を果たし、その賞金で町で豪遊する一連の流れに既に描かれているからだろう。バクマンであれば、二人がどのような経験をして読切作品に落とし込んでいったかが描かれるはずだが、本作の重点はそこにはない。あくまで藤野と京本の関係性に注目していることが、この2ページの圧縮した描写で感じられる。

読切作品を2年かけて描いていく過程で京本は背景の美しさに心酔していくようになる。
そして、高校卒業後に連載を打診されても浮かない顔をし、帰り道で藤野に一緒に連載は出来ないと吐露する。その根源的欲求は「もっと絵…上手くなりたい」というものであり、結局藤野と京本は別の道に進むことになるが、ここで京本の考える「絵の上手さ」は漫画の背景を描くことでは獲得できないと考えていることに注目する必要がある。まず単純に考えると、漫画の背景は今まで(一応書籍は参照していたが)独学で描いていたものであるが、美大に入ればよりアカデミックに、より集中的に絵と向き合うことができるので、単にテクニックや写実性としての「絵の上手さ」を京本が追求したいと思っているという考え方はできる。その「絵の上手さ」は、もっと絵が上手くなりたいと静かに告白する京本の手前に、陰に包まれながら写実的に描写される植物の筆致を見て直接的に感じることが出来る(京本の4コマのように植物は複雑な対象物である)。
しかし、以後の描写をつぶさに見てみると、京本の考える「絵の上手さ」はそれに留まらないようにも思える。

また、この時の二人のやり取りの中で、藤野が焦ってしきりに京本が美大に進学しても上手くいかないと断言していることにも注目すべきだろう。それは、藤野が京本の欲求を否定できないことの裏返しになるからだ。
一人の力で生きてみたいと言う京本に藤野は「そんなのっつまんないよ!絶対!」と返し、つまんなくないと反論する京本に藤野は再度「絶対つまんないし!」と断言する。一人で大学生活できると主張する京本に藤野は「無理だよ!」と突き返し、人との会話を練習するという京本に藤野は「無理 ぜったいムリ!」と聞く耳を持たない。ここまでの藤野はかなり強情である(自身の片割れと言ってもよい京本が離れることになるのだから当然であろう)。
しかしながら、京本の欲求が「もっと絵が上手くなりたい」とわかると、それ以上は反論できない。それは、他ならぬ藤野自身も絵が上手くなりたいという欲求を持っており、そしてその共通した欲求によって二人の関係性は築かれてきたからである。その欲求を否定すると二人の関係性の基礎が崩壊してしまう。
なお、ここでは二人に共通するものを一括りに「絵の上手さへの欲求」と描いたが、上記で示唆したように、また結果として二人は別の道をあるくことになったことから分かるように、藤野と京本が考える「絵の上手さ」は異なるように思える。ではそれは具体的にどのように異なるのか?後の解釈に活かすために問を立てておこう。

問.藤野と京本が考える「絵の上手さ」とは何なのか。

その後、藤野はたった一人で絵を描く。恐らく上京しているのだろうが、窓の外にはかつてあった季節感ある景色はなく時間の経過が感覚として存在しないように見える。
シャークキック(CSMのモチーフをズラして「チェンソー」同様に映画の志望理由上位を占めるサメ(「シャーク」ネード・ジョーズetc)に加え、ファイア「パンチ」からズラして「キック」)は、1巻、1・2巻、1・2・3巻と数字の欠如なく初期は何とか滑りだすが、その後は5巻、7巻、9巻、11巻と奇数巻のみ増えていく。ここで隣に置いてある本も同じ巻数であり、前の巻数(例えば5巻だったら4巻)ではないことに注目できる。初期を過ぎると、そこには偶数巻は存在していない。
ではタツキにとって偶数/奇数とはどのような数だろうか。ながやまこはるちゃんはしつこく、本当にしつこく偶数/奇数についてツイートしている。そのしつこさを感じてもらうために、偶数/奇数に関するツイートを以下取り出してみる。
https://twitter.com/nagayama_koharu/status/1241142780853805057
https://twitter.com/nagayama_koharu/status/1144340738722766848
https://twitter.com/nagayama_koharu/status/1125380989176426496
https://twitter.com/nagayama_koharu/status/1125379418329763845
https://twitter.com/nagayama_koharu/status/1114877835166932992
https://twitter.com/nagayama_koharu/status/1114877170759770112
https://twitter.com/nagayama_koharu/status/990845393414991872
https://twitter.com/nagayama_koharu/status/958619049964916736
https://twitter.com/nagayama_koharu/status/958618876778041347
https://twitter.com/nagayama_koharu/status/958618690718584832
https://twitter.com/nagayama_koharu/status/942731520946536449
https://twitter.com/nagayama_koharu/status/938326226065768448
https://twitter.com/nagayama_koharu/status/938678296367132672
https://twitter.com/nagayama_koharu/status/938223246016577536
https://twitter.com/nagayama_koharu/status/938225092827291648
https://twitter.com/nagayama_koharu/status/939739732988149765
https://twitter.com/nagayama_koharu/status/938708537605111808
https://twitter.com/nagayama_koharu/status/938326339269959680
https://twitter.com/nagayama_koharu/status/938326875721437184
https://twitter.com/nagayama_koharu/status/938367071934603265
https://twitter.com/nagayama_koharu/status/938328414108368896
https://twitter.com/nagayama_koharu/status/938328203285774336
https://twitter.com/nagayama_koharu/status/938223109915602944
https://twitter.com/nagayama_koharu/status/938222852859244544
https://twitter.com/nagayama_koharu/status/937900719612366848
https://twitter.com/nagayama_koharu/status/936916616960446464
https://twitter.com/nagayama_koharu/status/936915678505836545
https://twitter.com/nagayama_koharu/status/936908179853553664
https://twitter.com/nagayama_koharu/status/931547014608838656

本当にしつこく偶数/奇数についてツイートしているのがわかるだろう(何度でも言うが本当にしつこい)。ここで、それぞれの数字が偶数/奇数のどちらに入るかはあまり重要ではないだろう。なぜならこはるちゃんの中でも定まっていないからだ。
寧ろ、偶数/奇数に対してタツキがどのような感覚を抱いているかを確認した方が良い。上記抜粋と重複するが、以下が参考になりそうだ。

ツイートからは、偶数は温かいイメージがあり堅実で好きと述べられているのに対し、奇数は尖っているが危ないものではない、大胆、嫌いではないと評されている。少し切り口は異なるが、偶数は生クリームが多いクレープ、奇数は生クリームが少ないクレープだが、タツキはクレープが大好きで生クリームの多い店のYoutubeを見たりしているので、生クリームの多い方よりも少ない方への好意的な印象は弱いだろう。
https://twitter.com/nagayama_koharu/status/1248132986710528001
https://twitter.com/nagayama_koharu/status/1134952940962115584
https://twitter.com/nagayama_koharu/status/1005411464063008769
https://twitter.com/nagayama_koharu/status/984657022426558465
https://twitter.com/nagayama_koharu/status/988834700838891520

これを踏まえると、奇数の印象は少なくとも偶数への好印象ほどストレートではないことが伺える。奇数は、偶数のように温かいイメージはなく堅実でもないし、素直に好きと呼べる数ではないというのがタツキの感覚だ。

上記を踏まえると、シャークキックが初期は1、1・2、1・2・3と巻数を重ねたのは、まだ一人でも何とか連載を続けられていた藤野の心境を、その後奇数巻のみが描写されるのは、京本という片割れ(偶数には京本を重ね合わせることができる)のいない藤野の喪失感を表していると思われる。シャークキックはアニメ化が決定し、世間から見れば成功しているように見えるが、その横で11巻が何冊も置かれているのは、書店の描写であることに加えて、11巻から先に行けなくなった藤野の閉塞感も表しているように見える。
シャークキック11巻はCSM第一部の最終巻数と一致するので、ここにタツキ自身の心境も重ね合わされていると考えることも可能だろう。


その後、藤野は山形の美大で通り魔事件があったことをテレビの報道で知り、母親からの電話で被害者に京本が含まれていることを恐らく知らされている。
この描写の後に、藤野と京本が雪道を歩いて会話するシーンが挿入されているのはどういう理由によるものだろうか。例えば、京本の葬式において藤野が二人の思い出を回想するのであればより自然に思えるが、京本の訃報を聞いたその瞬間に過去を回想するのはやや唐突に感じられる。
参考になるかもしれないので回想の内容を見てみよう。回想においては、藤野が「もし」二人が漫画の連載が出来たら超作画でやりたいと言い、藤野は今後画力が上がるしそれに伴ってスピードも上がるから連載も楽勝と豪語し、それに対し京本は藤野みたいに絵をウマくなると決意する。藤野はそれを聞いて自信ありげに「私の背中を見て成長する」ように言う。
ここでは、二人が共に絵が上手くなりたいという欲求を持っていることが確認され、また漫画連載の夢を持っていることが描かれている。更に、京本が藤野の背中を見ながら成長しようとしている描写がなされるが、藤野はそれに捻くれて答えながらも恐らく内心は京本の絵の上手さを認めていることは変わっていないのだろう。
では現実の顛末はどうなったか、漫画連載は達成できたけれども、そこには藤野しかおらず京本は不在であった。更に、その事態は二人とも「絵が上手くなりたい」という欲求を持っていたにも関わらず訪れてしまったものである。
回想においては、二人は絵が上手くなりたいという共通した欲求を持って、二人で漫画連載を目指していた。
しかし現実においては、二人は絵が上手くなりたいという共有した欲求をかつて確かに持っていはしたけれども、今藤野は孤独である。
この回想には、京本と違う道を進む藤野の孤独な状況を鮮明にする効果があるように思われる。

藤野はその後、京本の葬式に参加し、京本の部屋の前にぼんやりと佇む。ふと床に置いてあるスケッチブックの山を眺めると、間にルフィーらしきキャラが表紙を飾るジャンプらしき雑誌が挟み込まれている。
藤野はその雑誌のページをぱらぱらとめくる。
藤野の横顔の後、「出てこないで!!」の4コマが描かれる。
藤野のやや左後ろからの横顔のコマ2連。
右手で「出てこないで!!」の4コマを持ちながら「私のせいだ…」と呟く藤野。
がくんと膝から落ち、京本の死は自分のせいだと藤野は自責する。そしてなんで描いたのか、描いても何も役にたたないと無力感を吐露する。
そして藤野は「出てこないで!!」の4コマをビリビリに破り裂くが、1コマ目が京本の部屋のドアの下に滑り込む。
この一連のシーンは、細かく見ると不自然な箇所があるのだが、それは後ほど詳しく説明することとする。
ここでは、藤野が、京本の死は自分の責任であるという罪悪感と、漫画を描いても何にもならならいという無力感に打ちひしがれており、これらの感情は本作を読み解く上でも非常に重要だと思われる。
それは、藤野の罪悪感・無力感が「京本っ部屋から出さなきゃ死ぬ事なかったのに」「(絵を)描いても何にも役に立たないのに」というセリフと、京本が町からの帰りの電車の中で藤野に言った「絵を描いてて良かったって思えた」「部屋から出してくれてありがとう」とセリフが呼応し対になっていることからも伺い知ることができる。

藤野が抱く罪悪感は、京本の死は自分の責任だというものであった。自分のせいで死をもたらしてしまった京本は、藤野にとってどのような存在であったか。
藤野にとって京本は、以下のような、一様な評価が難しい存在である。

  • 「シロウト」「軟弱者」と侮蔑の対象だった存在
  • 4年生の中で自分より卓越する画力を持っていた存在
  • 2年間の修行を経ても勝つことのできなかった、自分の存在意義を奪い自分を殺した存在
  • 自分の4コマ細かく評価した上で、自分を尊敬し、絵を描くことと存在意義を蘇らせてくれた存在
  • 京本が絵を描く意味を見つけられたことについて、感謝を素直に表明してくれた存在
  • 取材旅行を重ね7本の読切作品を共に作り上げた存在
  • 根源的には「絵が上手くなりたい」という共通した目標がありながらも別の道を進むことになってしまった存在

藤野にとって京本は、かつて自分を殺した加害者であり、しかし自分を蘇生させた恩人であり、自分が相手を救っていたことに感謝するファンであり、共に漫画を描いていた戦友であり、袂を分かった不在の存在でもあった。
そのような複層的な位置づけを一人の身に抱えた京本を、結局自分は殺してしまった。
そしてその時の凶器は、藤野が人生を懸けている漫画である。京本の死に動揺してはいるが、藤野は漫画の無力さに自覚的である。その無力ではあるが人生を懸けるに値する漫画は、殺傷能力は低いけれども自分の持つ武器の中で最も殺傷力のある凶器であるが、それによって最も大事な存在を殺してしまった。それが藤野の抱える罪悪感である。
この罪悪感が、「背中を見て」の最終コマにおいて藤野の背中に突き立てられるつるはしとして具現化されている、と私は考える。

(II)③罪悪感:抑制された漫画的表現

罪悪感に関連する描写として、本作における漫画的表現の使われ方を以下で検討する。

一般的に、漫画の構成要素(以下、単に「構成要素」や、より簡易に「漫画的表現」として言及する)にはざっくり以下があるように思われる(念のため、1つのコマに全ての要素が描写されていることを述べたいわけではなく、以下要素のうち任意のものが漫画を構成するという趣旨)。

①枠線
②人物
③背景
吹き出し
⑤効果線
漫符
オノマトペ
⑧心中描写

補足すると、⑤は集中線等、視覚的効果を強調するようなエフェクトだ。
⑥は汗マークや怒りマーク等、感情表現を記号に代替して伝える(この漫符という表現は漫画について調べるうちに初めて知った呼称で、こちらに詳しい)。
⑦は、ワンピースで人物が登場した際の迫力を示す「ドン!!!!」のように、④吹き出しではなく、効果音を地の絵(ここでは吹き出しや人物ではない箇所程度に捉えて貰えれば良い)に描写するものと捉えられる。
⑧は、登場人物が心の内で考えていることが描かれること一般を指す。④吹き出しによって⑧心中描写が行われることがあるが、その場合は⑧としてカテゴライズすることとしよう。

上記の、漫画の構成要素は当然ながらタツキの代表作であるFP及びCSMにも用いられており、⑤及び⑦の表現に至っては(詳細は本記事においては割愛するが)タツキの漫画表現の特色であるとすら言えるだろう。
本作はFPやCSMと大きく異なる点が、この漫画の構成要素の用い方にあると思われる。以下では、本作において構成要素の何が用いられていないのか、また逆に何が用いられているのかを確認してみる。

まずは用いられていない構成要素について見てみよう。タツキ作品は、FPやCSMに見られるように構成要素が多く盛り込まれており漫画表現は饒舌と言える。それらと比較して、まず本作であまり用いられていない構成要素を確認するが、その後、逆に用いられている構成要素を検証することで本作の特徴がよく理解できると思われる。

まず読者が気づくことができるのが、⑤効果線、⑥漫符、⑦オノマトペは一見するとほとんど用いられていないことだろう。
⑤については例外的に用いられている場面を後に見るが、⑥については藤野、京本の双方で顔面に汗が描かれるコマは確認できるものの、漫画でよく見られるような顔面の外に描写される汗(極端なものだと五十嵐みきおの『ぼのぼの』で採用されるようなもの)は1つも描かれていない。
⑦については、藤野が卒業証書を渡そうと京本家を訪れた際、家の奥から聞こえる「ガタンッ」という音と、本作の後半で「出てこないで!!」のコマが部屋に滑り込んできたことに困惑する京本が聞く「ピンポーン」というインターホンの音の2つを想起するかもしれないが、これらはいずれも④吹き出しの中に描かれており、オノマトペとして描写されてはいない。CSMにおいてマキマやデンジの家で響くインターホン音はオノマトペとして表現されていることの対比でも、本作においては意識的に、オノマトペではなく吹き出しによってこの2つの音を物語に組み込みたかったのではないかと思われる。

⑧心中描写に至っては、本作において全く採用されていない。

このように見てみると本作においては、漫画の構成要素のうち⑤効果線、⑥漫符、⑦オノマトペ及び⑧心中描写は、全く用いられていないか、又はかなり抑制的に用いられている。
その結果、登場人物のコミュニケーションはもっぱら④吹き出しを介した発話によって成り立っている。それは主に藤野と京本の間において行われるが、登場人物の行為を原因としている意味で、上記でみた「ガタンッ!」(京本の身体運動を原因とする)や「ピンポーン」(藤野が指でボタンを押すことを原因とする)も登場人物の発話とみなすことも不可能ではないだろう(というか、通常オノマトペで表現される上記2音を吹き出しで描写する理由がそれ位しか思いつかない)。
登場人物同士のコミュニケーションが発話中心であることに加え、⑧心中描写が全く用いられていないことが本作の特色と見受けられる。

次に、基本的に漫画的表現に抑制的である本作において、敢えて用いられている漫画的表現について見てみる。

①枠線、②人物、③背景及び④吹き出しについては、漫画が成立する最低限の要素と言って良いと思う(勿論、『Hunter x Hunter』ジャンプ掲載時のように、ほぼネーム状態のものもあるが、あれは流石に例外だろう)。

上記の通り、本作の漫画表現はかなり抑制的であるが、それでもなお用いられている表現に注目することは重要だろう。
具体的に見ると、(i)藤野⇔京本の間でやり取りされる4コマの物体としての運動描写、(ii)藤野が回想する京本との会話時の雪の描写、そして(iii)本作後半で描かれる通り魔と藤野の運動描写において、⑤効果線が意識的に用いられているように思われる。

まず(i)藤野⇔京本の間でやり取りされる4コマの物体としての運動描写について見ていこう。
最初に、藤本から京本に不意に届けられてしまう4コマは、4コマ用紙は通常行われるような直線で輪郭を一部明示されつつも、また一部は連続する斜線によってその動きが強化されて表現されているように見える。同じ描写は、雨の中、喜びの中で舞う藤野の四肢にも見ることが出来るので、激しめの動きの描写を4コマにも適用していると考えても良いだろう。
4コマといえば、本作後半における別世界(藤本の妄想とも取れるが、この検討は後ほど行うとして現時点ではとりあえず「別世界」として話を進める)で、藤野のカラテキックにより救われた京本が自宅で描いた4コマが突風で飛ばされた際、カーテンや4コマも上記と同じ描写で動きが強調されている。
他の4コマが登場する場面に目を移してみると、約2年間の絵の練習を以てしても尚超えられない京本の画力に打ちのめされた藤野が4コマを辞めると宣言し、(おそらく)お風呂から上がって母親にスケッチブックの束を捨てるよう依頼する時、スケッチブックの束から正に落ちる4コマの描写も上記同様になされている。

同じような描写は、藤野を追いかける京本の足元、通り魔事件の報を聞き京本に電話をかけようとする藤野の手、そして京本を襲う通り魔とそれを撃退する藤野のカラテキック!のシーンにも見ることが出来る。
これは単に、いずれも動きを描写する必要性に駆られてという理解も勿論できるだろうが、本作においてこのような漫画的表現が抑制されていることも勘案すると、何か特別な意味あいがある可能性も検討する価値があるように思われる。

ここまで、本作において用いられている漫画的表現、特に4コマ含む動きの描写に注目してきたが、4コマが登場するシーンを意図的に一つ説明していない。それは、京本の葬式が終わり、彼女が死んだのは自分のせいだと自責する藤野が八つ裂きにした4コマ(特に「出てこないで!!」のコマ)である。

ここでは、他の4コマに見られたような動きの描写はなく、静的な表現に留められている。
動きの描写のある他のシーンとの対比では、こちらも同様に何らかの意図が含まれていると考えるのが自然であろう。

更に、本作において用いられる漫画的表現を見ていく。次は⑤効果線である。
効果線のうち、まずは集中線に注目してみたい。
これは藤野が通り魔に炸裂させたカラテキックのシーンで用いられている。

次に注目するのは、軌道の描き方である。これは補足が必要かもしれないが、CSMでいうとサムライソードがアキに襲い掛かるシーンでは、刀の軌道が透け感を持って描写されている。本作でも同じ表現が1回だけ用いられており、それは通り魔が京本めがけて振り下ろす凶器(つるはしだろうか)の軌道においてであり、「うあっ!」と叫ぶ京本の吹き出しが丁寧に透けて見えるように描かれている。

集中線や軌道の描き方は極めて「漫画的な」表現に思われる。
本作では何度も描いているように漫画的表現は抑制的に用いられている中で、京本が通り魔に襲われているシーンで上記描写が採用されていることは何らかの意味があるように見える。

問.なぜ本作では漫画的表現が抑制されているのか。


罪悪感・無力感について一通り確認することが出来たので、その内容をマトリックスにまとめることで本節を一旦締めることにしよう。

(III)想像力を頼りに生きることを決意する

次に生きることを決意すること、そして武器として想像力を活用することについて検討してみる。
まずは、直前まで確認していた(A)ストーリー・物語の続きを見てみることから始めよう。

(III)①生きる決意:再び漫画に向き合う藤野

「出てこないで!!」の4コマ目が渡った先の世界Bの位置づけは、ここでも一旦措いておいてまずは(A)出来事の流れや(B)描写を見てみる。
部屋に滑り込んできた4コマに気づいた京本は、玄関からインターホンが鳴ったことに気づく。この順序は、世界Aにおける順序(インターホンを藤野が鳴らす→藤野が描いた4コマが京本の部屋に滑り込む)と入れ替わっていることに留意したい。世界Bにおいては4コマが京本・藤野の関係性の発端になっている。
卒業証書を持ってきた藤野から隠れ、京本は絵を描き続ける。その背中を映し出す4つのコマにおいては窓の外の季節感はないものの、積みあがるスケッチブックと本の量、及びその後大学のAO入試を受ける描写からも中学~高校の6年間を描いていることが分かる(そのような視点から見ると京本の背中も成長している人のものに見える)。
そして、その過程で世界Aにおける京本Aと同様に、京本Bも背景美術の世界に魅了される。
無事TUADと思われる美大に合格し絵を描き続ける京本は、恐らく卒業制作の最中に通り魔に襲われるが、藤野のカラテキックにより一命を取り留める。
藤野が救急車で運ばれる前、お礼をいうために連絡先を交換する際に、その恩人が藤野先生であることを京本は気づく。ここはやや唐突感があるが、「隣町の道場でカラテをやっている」ことと藤野という苗字を合わせ考えて、京本は藤野先生であるという気づきに至ったのだろう。

その後の藤野のセリフには若干違和感が残る。
京本の「なんで漫画かくのやめちゃったんですか!?」という問いかけに対し、藤野は絵を再開したと告げるとともに「連載できたらアシスタントなってね!」とも言っている。
直接的に接点のない(京本が一方的に藤野のことを知っているだけの)関係性であることを踏まえると、藤野がいきなり京本をアシスタントに誘うのはやや唐突感がある。もっとも、藤野の視点から考えると、小学校の頃の自分の4コマのファンであること、現在美大に通っていることを踏まえ、京本に一定の画力があると推測しての誘いである可能性も否定できないが、アシスタントといえども単に作業を痛くするだけの存在ではなく、共に漫画を作り上げる存在である(それは世界Aと同じようなやり方になるかもしれない)アシスタントを軽々に誘うには飛躍があるように思われる。また、世界Bにおける藤野Bは高いコミュニケーション能力を有していることが救急車に運ばれる一連のやりとりでうかがい知ることが出来るが、その能力により気楽に声を京本に掛けただけとも読めはするが、それでもやはり違和感は残る。
上記に加えて、藤野が、絵を再開したことの直後に連載開始とアシスタントの話をしているのにも飛躍が感じられる。藤野の自信の(コミュニケーション能力の高さによって世界Aよりもその自信は強化されているかもしれない)表れとも見ることが出来るが、この時点では藤野はまだ連載開始をしていないことからすると、アシスタントに誘うタイミングとしては読切作品を作る時とする方がより自然ではなかろうか。
この違和感は、後に世界A・Bの位置づけを検討する時に細かく考えることにしたい。

家に戻った京本は、藤野の過去作を見て微笑む。そして枠線のみが書かれた4コマ用紙をみつけ、やはり微笑みながらペンを執る。ところが、窓から吹く突然の風により4コマ用紙はドアの下をすり抜ける。

次のページで、京本の部屋の前で座り込む藤野の近くに4コマ用紙が描かれている。ここでは、決して4コマ用紙が京本の部屋のドアの下から藤野の元に滑り込んできた描写はないことを確認しておこう。
そして、枠線すら書かれていない縦長の空白の紙を手に取り、藤野は驚いたような表情をする。
続いて「背中を見て」の4コマ。上で記載したように、この4コマは藤野自信が描いたものと考えられる。
縦長の紙を持ち、藤野は京本の部屋のドアを見上げる。小6の時に描いた、そして京本の葬式時に破いた「出てこないで!!」の4コマ用紙が、藤野の手にある際にはその内容まで書かれていることの比較からは、ここで4コマ用紙と思われる縦長の紙には何も書かれていないことには留意が必要なように思われる。この違和感についても追って検討しよう。

そして、ドアを開けた藤野の目には、窓が空き、貼り付けられた4コマが一つ飛ばされた、京本の部屋の光景が飛び込んでくる。そこには、シャークキックのポスターやコミックス(同じ巻を複数所持している)、読者アンケートがあることが描写されており、京本は一ファンとして藤野を支えていたことが伺える。
ふと後ろを振り返った藤野は、かつて自分が京本のどてら(秋田弁だとどんぶく)に書いた「藤野歩」というサインを見つける。
同時に、楽しくもなく地味で好きではない漫画を描く意味を問われ、漫画を描くことを通じて様々な感情を経験した京本との日々を回想する。回想直後に京本の喜ぶ顔が大きく描かれるので、藤野が漫画を描く根源的な意味は「京本を喜ばせること」と考えがちなように思われるが、その後のコマで京本は泣いていたり困惑した表情を浮かべたり腹を抱えて爆笑してたりするので、喜びの感情だけでなくいわば喜怒哀楽の感情全てを京本と共に経験したことが、藤野が漫画を描く意味であることはきちんと読み取らねばならないだろう。

その後藤野は、涙ながらにシャークキックの最終巻(11巻)189ページを読む。
立ち上がり、田舎道を進み、東京に戻り窓に何かの紙を貼り、また漫画を描き続ける藤野の背中を見て本作は終わる。
そのラストのコマにおいては、既に触れた通りTUADのパンフレットらしき本、ジャンプと思しき雑誌、「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」と思われるDVDケースが描写される。またIn Angerと描かれた本?も描かれ、本作1ページのDon'tと本作の題名『ルックバック』と合わせてDon't Look back in Angerというオアシスの曲名になることは多くの人が指摘しているギミックなので、ここで詳説する必要はないだろう。
これらに加え、デスク周辺の本が整理され、PC筐体の上や横に置かれた缶やペットボトルが片づけられていることにも読者は気づくことが出来る。ここから、生活を再見し漫画を描くことに再び向き合おうとする藤野の姿勢が見て取れる。
この藤野の姿勢に呼応するように、連載開始した時のコマよりも最後のコマでは多くの光が部屋に差し込んでいる(デスクの右手前の足からコマの下部方向に伸びる床板の線を基準とすると、連載開始時には床板2枚分までしか光が差し込んでいない野に対し、最後のコマでは床板3枚分まで光が伸びている)。このように変化する要素以外(例えば窓の外の風景やPCの配線)は恐らくコピーされていることの対比でも、変化した要素が際立つように工夫されている。

ここで、失意の底から藤野が立ち上がった理由は、いくつか考えられるだろう。袂を分かった京本が陰で自分の連載を助けてくれていたと気づいたこと、作業としては好きではない漫画を描く意味は京本を喜ばせたり色んな感情(上で触れた通り、喜怒哀楽に代表される幅広い感情群であることに改めて留意する)を遣り取りすることにあったと気づいたことは素直に読み取って良い。
私は、そこから更に拡張することも可能なのではないかと思う。
京本の死の前、藤野はシャークキックを11巻まで連載しアニメ化まで達成するという成功を納めているが、偶数を欠き奇数巻のみ連なる描写によって、藤野はその上京に停滞感・閉塞感を抱いていたものと推察される。かつて地元の部屋で感じていた季節感を、東京の仕事部屋では感じることが出来ない。藤野は外界にいる読者とも隔絶されている。藤野は漫画を描くことが社会とどのように繋がっているか実感を持つことが出来ずにいた。
しかし、京本の部屋で、自身の作品のポスターやコミックス、読者アンケート用紙を見つけることで、藤野は少なくとも京本が自身のファンであることだけでなく、京本を経由してその他藤野のファン一般が人間として存在していることにも想像力が及んだのではなかろうか。
京本が一ファンとしてサポートしてくれていたことも勿論心強いが、彼女以外にも多数のファンが自分を支えてくれていることに思い至った。そのようなファンに対し、自分の作品を通じて京本同様に様々な感情を提供できていたことに気づいたことまでをも含め、藤野は再び漫画を描くことに向き合う気概を持つことが出来たのではないだろうか、というのが私の読みである。

(III)②想像力:ネガティブバイアス

ここまでは主に(III)の中でも「生きる決意」について(A)ストーリーや(B)描写について確認したが、以降は「想像力を頼りにする」ことについて確認していこう。
以下の分析においてはいくつか言及すべき要素があるが、まずその要素について申し上げると、想像力の形態(想像力が用いられない事例を含む)、想像力を発揮する過程・プロセス、そして本作における想像力の象徴について以下確認することになる。

本作において想像力に関連し直接的に描写されるものの一つは、まずは想像力の欠如や偏見についてである。想像力のOnの状態を描写するときに、その対抗要素としてOffの状態についても同時に描写されている。想像力が発揮されずネガティブな思い込み・偏見・バイアス・認知の歪みが形成されてしまっている描写が本作では多く登場する。

これから確認していく本作の表現は、漫画的表現というよりも寧ろ映画的表現に属するもののように思われるが、具体的には、本作において(そしてタツキの他作品でも)特徴的な光の表現である。
よくタツキの作品は「映画のようだ」と形容されるけれども、その一つの要素は光の表現にあるように思われる(もう一つの要素はカメラ位置・画角と思われるが、それについては後述する)。
本作における光の表現は、映画においては典型的には照明の問題として処理されるものだろう。その内容は、光源と被写体の位置関係(すなわち現実に立脚した物質としての光の及ぶ/及ばない範囲)の文脈で多くは語られることが多いように思われる。ただ、漫画の分析においてはそれだけでは足りない。何らかの理由で現実の光の描写と異なる描き方が採用されることが多くあるからである。
ここで今後分析する内容を予告するが、次の章では本作において「現実」(本作中で発生する事象)とそこから喚起される「イメージ」(主に登場人物の回想や創作物)との乖離について見ていくことになるのだが、以下で確認する光の表現はこの「現実」と「イメージ」との乖離にも関係するように思われる。
現時点では何を言っているのかわからないと思うので、具体的にコマを見ていこう。

まずは本作が始まってすぐ、京本の絵が学年新聞に輝かしくデビューした際に軽薄な言葉を吐く同級生男子の描写に現れる。

左のコマは、同じコマに藤野が描かれていることからも、客観的な「現実」を描写したものだろう。
それに対して、すぐ次のページに登場する右のコマは藤野が帰宅途中で、かつて色んな人が自分の絵を褒めてくれたこととともに回想される男子同級生に対する藤野の「イメージ」である。「現実」では「京本の絵と並ぶと藤野の絵ってフツーだなと」(これでもまあ軽薄ではあるのだが)男子同級生の素朴な感想として描写されている。一方、「イメージ」においては「藤野の絵ってフツーだなぁ!」と藤野の絵を嘲笑し蔑むトーンが強調して描写されていることがわかる。この時、窓の外から差し込む逆光や、男子同級生の顔の陰影もまた強調されている。
ここで誤って発動される、または欠如した想像力は、まず同級生男子の心無い発言に表れる。同級生男子は、「藤野の絵ってフツー」と伝達することで藤野の心がどのように傷つけられるかの想像力が欠如している。
次に藤野に注目すると、同級生男子の発言を大げさに誇張して、そこに侮蔑のニュアンスを強化している点で、想像力が誤って発動され認知の歪みを生じさせている。
その想像力の形態を示すために、逆光で輪郭がぼやける光の描写が用いられている。

この逆光と陰影の強調表現は、本作の別のシーンでも確認することが出来る。それは京本が通り魔に襲われるシーンである。

通り魔は男子同級生の「イメージ」の描写以上に、強烈な逆光と深い陰影によって描かれている。
通り魔は京本に対し、京本の絵が自身の絵をパクったものであることという誤解を持ち、京本が通り魔を見下しているという認知の歪みを抱えている。通り魔は誤った方向に想像力を行使している。
ここで注意したいのが、同級生男子は逆光の表現が用いられたものとそうでないものの両方が描かれており、「現実」と「イメージ」の対比が可能であるのに対し、通り魔には逆光を伴った「イメージ」の描写はなされているけれども「現実」に対応する描写がなされていないことである。同級生男子について「現実」から「イメージ」を生成したのは藤野であった。では通り魔について「イメージ」を生成したのは誰だろうか。まず作者のタツキ自身であるが、それに加えて我々読者もそれに加担していることに気づく。なお、念のため断っておくがここで言う「イメージ」の生成とは、通り魔に対しステレオタイプを押し付けること、通り魔の描写により現実世界に存在する何者かの人格・性質についてまでも固定観念を抱くことだけを意図するものではない。そのような否定的評価だけでなく、肯定的評価或いは中立的評価を加える解釈行為全般を「イメージ」の生成と表現している点は念押ししておく。
この論点については、本節において想像力が用いられること全般について検討した上で、最後に改めて触れることにしたい。


光の表現があらわすもの、「現実」と「イメージ」の乖離が何を示すかを検討するに当たって参考になる描写がまだある。ドラマティックな(あるいは映画的な)光の表現が用いられているシーンを想起してみる。

(i)学年新聞に4コマを載せたいという京本を「シロウト」「学校にもこれない軟弱者」と揶揄する藤野。だが現実には、京本は藤野を凌ぐ程の画力を有しており全く「シロウト」ではないし、藤野以上に絵の修行に没頭してきたことから「軟弱者」とは決して形容できない。ただ、我々読者の中には引きこもりの人を、引きこもりの事実だけを以て「軟弱者」と侮蔑する心がある人もいるのではないか。そこには引きこもりに対する想像力が欠如している。
(ii)絵の練習に2年弱も費やす藤野に対し、他の友人の名を(恐らく勝手に)借りて、絵を辞めないと「オタク」だと思われ「キモがられちゃう」と持論を展開する同級生女子。彼女の頭には漫画やオタクに対する偏見がこびり付いている。もしかしたら、我々読者の中にも、絵を描くことはキモイこと、と思っている人もいるかもしれない。そこには絵を描く人に対する想像力が欠如している。
そして、(iii)京本の死は自分のせいだと崩れ落ちる藤野。その自責には極めて大きな論理の飛躍がある。そのロジックに則るならば、京本を産んだ彼女の母にも責任の一端があるはずだが、勿論それは京本の死の真因ではない。藤野は罪悪感に駆られ過ぎて荒唐無稽のロジックに嵌まり込んでおり、想像力が誤った方向に行使されている。

以上、いずれのコマでも、対象人物の顔を一部照らし、または一部影となるように光が用いられており、偏見・バイアス・認知の歪みをもたらす想像力欠如の象徴として光が描かれているように思われる。

(III)③想像力:ポジティブバイアス

上記のように確認してみると、本作における光の表現はネガティブなもののように感じられてきたのではないだろうか。でも、必ずしもそうではない描写もある。
まずは若干視点を変えて、逆光ではない光について見てみよう。具体的には京本を照らす光について見てみる。
京本の髪は通常黒のベタで描かれる(描くの楽だね)。しかし、逆光に加えて、例外的に光に照らされたように髪の束感まで描写されるケースがある(現実において光源が存在しえないような場面すらある)。


(i)漫画の賞に応募するための読み切りのネームが完成したら見せてもいいと言われた京本。
(ii)町で遊んだ帰りの電車内で、藤野と遊び倒した一日が凄く凄く楽しかったと言う京本(「人が怖くなって学校に行けなくなっちゃった」とカミングアウトする京本に対し、控え目な逆光描写が用いられていることにも留意したい)。
(iii)高校卒業後に連載するよう誘いを受けた際に困惑する京本。
(iv)京本の訃報を聞いた後、回想の中で、藤野のように絵が上手くなると宣言する京本。
(v)「別世界」において藤野が漫画を再開したと聞いた京本。
そして、(vi)藤野のネームを読んだあとに満面の笑みを浮かべる京本。

(iii)の整理はやや難しいが、いずれも他者に対する感情表現が極めて苦手な京本が感情を露にしており、その背景には藤野に対する尊敬や感謝が存在するシーンとして理解することが出来る。現実においては、京本は決して藤野に全ての面で劣っているわけではなく、特に純粋な画力において京本は藤野を超えた実力を持っているにも関わらず、京本の頭の中では藤野は天才として降臨している。現実を超えた藤野を京本は想像力によって創り上げている。
ここで用いられている光の描写は、前述した逆光の表現が持つ否定的なニュアンスとは毛色が異なり、どちらかと言えばポジティブな意味を有している。

上記の京本の描写に加えて、京本の部屋で自分のサインが描かれたどてら(秋田弁だとどんぶぐ)に向かって振り向く前の藤野にも強い光が当てられる。ここで面白いのは、読者から見るとこの光は逆光だが藤野視点では順光である点にある。逆光のネガティブなニュアンスと、正対する光のポジティブな意味が合わせてこのシーンには含まれているように思われる。京本の死が自分の責任であるというネガティブなバイアスと、京本から尊敬を含むポジティブな眼差しが藤野の中には同居している。その両義性を逆光と順光で表現しているのではないだろうか。

ここまで、本作における光の描写に注目し、想像力の欠如によって生じるネガティブバイアスと、逆に想像力が発揮されることで生じるポジティブバイアスについての描写を確認した。

(III)④想像力:ゆらぐ描写

『ルックバック』という題名に表れているように、本作は随所で過去を回想する場面が登場する。過去起こったことの記憶を掘り起こす作業は、想像力が発揮される一場面と言えるだろう。
本作の要素に過去の回想があると捉えた時、本作の構造を再考する必要が生じる描写がある。
まず、上記でみた本作の構造を復習しよう。下図を再掲する。

しかし、本作の描写を細かくみていくと、本作の物語構造は上図ほど単純ではないのではないか、ということに思い至る。

以下では、本作において一貫しない描写が多く登場することに注目する。一貫しない描写とは?それは、前のコマで描かれていたこととは異なることが後のコマで描かれることである。より具体的には、本来作中では変更されないであろう法則性・一般性のようなものが、イレギュラーにも貫徹されない形で提示されるということである。
具体例を見ないと理解しにくいかもしれないので早速みてみよう。

(III)⑤ゆらぐ描写:鏡映し

まず、以下のコマに注目してみよう。

京本の下側に描かれる漫画原稿の台詞「やめて!!」が鏡映しになっている。
当然ながら、物語上、ここで台詞を鏡映しにする理由は全くない。物語のレベルで理由がないのであれば、物語外に理由があるか探らねばならぬ。

思考材料をもう少し集めてみよう。
上記同様に文字が反転しているコマはあるか。以下を見てみる。

わかりやすい方から見ると、左のコマにおいては、京本の服のバックに正位置でDOGとプリントされているその上に、反転してCATと表示されている。左上から右下の順番とし、かつ反転していることが確実である文字に下線を引くと、
TAC
DOG
となっている(TとAはy軸について線対象なので反転しているとは断言できない)。

次に右のコマを見ると、見切れてはいるが反転したC、反転しているかどうかわからないA、正位置のDが読み取れる。上記同様に表記するとすれば、
CA●
D●●
となっている(●は不明な文字を示す)。
右のコマにおける京本の服のバックプリント文字は四角で囲われていることからすると、左のコマで来ている服(四角で囲われていない)とは別の服ということになるだろう。しかし、文字の正反は別にしてCAT及びDOGという文字列でロゴが構成されていることからすると、同じ服のブランドである可能性の方が高いように思われる。
本作において、登場人物が着る服のデザインには多く文字が用いられている(例えば藤野は部屋で漫画を描くときにsoccerとバックプリントのある服を着ているし、p25に描かれる男子生徒はNEKOと書かれたTシャツを着ている)が、いずれも正位置で文字が書かれていること、そして本章冒頭で見た漫画原稿の台詞が鏡映しになっていることを踏まえると、上で見た京本の服のバックプリントの文字列は、一部で反転していると考え、更に何か意図があるのではないかと考えてみるのも意味があろう。

(III)⑥ゆらぐ描写:利き手の反転

文字に続いて、鏡映しの意味から出発して、反転している別の描写がないか考えてみよう。鏡映しとは、右と左が逆になっている状態である(上下逆になる特殊な鏡は存在するが、一般的ではないと思われるので一旦措く)。この発想から出発すると、本作において右と左が逆になっているコマを探せばよい。では、右/左であること、右/左に位置することが自然である性質を備えているものは何があるだろうか。

まず思いつくのは利き手である。

藤野と読切作品の執筆に勤しむ京本Aは右手でペンを持つが、「出てこないで!!」のコマを受け取った別世界Bの京本Bは左ででペンを持つ。では京本Bは左利きなのか?と思えば、同じ世界BにおいてAO入試を受験する時の京本Bは右手で絵を描いており(直接的には描写されていないが、左手でパレットを持っていることから逆側の手で絵を描いているのだろう)、また一方で大型絵画を描く京本Bは左手でブラシを持つ。
京本が両利きの可能性もゼロではないが、そうすると京本Aが一貫して右利きで描かれていることと平仄が合わない。
京本の利き手の描写のゆらぎにも何らかの意図を見出すことは可能だろう。

(III)⑦ゆらぐ描写:服の反転

鏡映しや反転が示すものを検討するのは一旦先延ばしにして、とりあえず材料集めの作業を進める。
右/左を性質として備えるものとして、次に思いつくのはシャツの右前/左前だ。
男性用シャツは右側にボタンがついている(左側の布が上になる)のに対し、女性用シャツはそれとは逆に左側にボタンがついている(右側の布が上になる)。
表現がややこしいのだが、男性用シャツは右前、女性用シャツは左前と言うらしい。服を着ている人を見る視点から布の前後を判断しているのだろう。
シャツでなくともボタンのある服は同様である。(ただし、最近のファッション雑誌を見ると、ボタンをかける際の効率性だとか男女の性差解消の社会的趨勢もあってか、女性モノであっても右前になっているものも散見されるが、とりあえず以下ではコンベンショナルな認識である男性:右前、女性:左前に従う。)

上記と異なり、日本において和服は男女とも右前で着用されるが、反転のしるしの意味を後で考える際に、日本には「逆さ事」という考え方があることはこの段階で念頭に置いて置こう。

本作では登場人物は皆洋服を着ているので男性:右前、女性:左前が初期位置となるが、本作で衣服が反転しているシーンには何らか意味が込められているという仮説の下、以下では気になるコマを見ていく。
尤も、単にタツキが上記文化を知らずに右/左前を描いているという可能性も否定できない(チェンソーマンにおいても結構、右/左前のブレが見られる)。ただ、ドアの開閉方向すら修正を指示する林編集がついている(ミリオンタッグの動画 11:50-)ので、仮にタツキにより右/左前が誤って描かれた場合、林編集により指摘される可能性は高いのではないかと考える。

このような編集者が、シャツの右前/左前が一貫していないことを見逃す可能性の方が低いのではないか。そうすると、シャツの右前/左前にも意味があると考えてよい。
右/左前が反転しているコマにはそうしなければいけない理由があるということになる。

では具体的にコマを見ていく。
最もわかりやすいコマは以下だろう。

これらは、藤野と京本が初めて邂逅するシーン、そして京本が通り魔に襲われる直前のシーンであるが、同じページの中で右/左前が反転している。別のページであれば書き損じの可能性が高まるが、同じページであればその可能性は低く何らかの意図が込められていると考えやすい。
このページでは右/左前が混在しているが、このカーディガンは明らかに女性ものであるし、そもそも卒業式はおめかしすべき場(男性/女性らしい衣服を着るべき場)であるので、男モノの右前の服を着ているのは異常だ。

着眼点を得たところで人物ごとの描写の移り変わりを見てみよう。
まず藤本がボタン付の衣服を着ているのは以下のコマである。藤野はシャツのようなボタン付の服を着ることが少ない(または右/左前を判別可能なコマ)ので材料があまりない。

京本と出会うシーンでは上記の通りブレが見られるが、他のシーンでも左前(=正常)と右前(=異常)のコマが混在する。
読切作品の受賞結果を確認すべく夜の雪道を京本と歩く藤野は右前のアウターを着ている。
京本と町(本論から逸れるが、田舎の人は都会を一般的に「町」と呼ぶ)に繰り出す際におめかしした藤野の服は左前になっており正常化する。
京本の訃報を聞いた後の回想において、藤野は右前のダッフルコートを着ており異常に逆戻りする。
その後のコマでは藤野がボタン付の服を着ることがないが、京本の葬式では正常に左前のスーツを着ている。

次に、京本については以下のコマに注目しよう。

町に繰り出して準入賞の賞金(5千円)で豪遊した帰り道、外に行くのが怖かったと語る京本の着るシャツは、判別しにくいけれども右前(異常)のように見える。
取材のために東京に行った際は、京本は明確に右前の異常なシャツを着る。
高校卒業後に連載する打診をされた際は、右前のシャツ・カーディガンを着る。
しかしその後、連載には協力できないと打ちあける京本のカーディガンは左前になり正常化する。
遺影に映る京本は、首元の一番上のボタン付近は左前のように見えるが、リボンの下のボタンは右前のようにも見える。
京本Bの作業着は、本章の冒頭に見た通り左/右前が混在するが、大型絵画を描く時をはじめとして右前の服を着ていることが多いように見える(なお、作業着は作業服は男性物しかないかな?と思って調べてみたら一応女性物はあり、左前のデザインになっているものもある。ただ、女性物でも右前のものはあり、大学時代の京本はそのあたり気にしない気もするので、ここでの京本の服が異常かどうかは判断がつかないが、いずれにしても左/右前の描写が揺らいでいるのは確かである)。
京本の部屋でシャークキックへの支援を認めた藤野が回想する場面においては、読切作品の台詞が反転するそのすぐ横で、京本は左前の服を着ている。ここでは台詞が反転しているので、台詞が正常になるように更に反転させると、京本の服は右前ということになり異常化する。
同じく藤野の回想のシーンで笑いあう二人だが、京本は右前の服を着ておりここでも異常な服を着ている。

上記で見た通り、藤野も京本も右/左前の描写に一貫性がない。

ここまで、文字・利き手・服の鏡映し化について見てきたが、その意味は後で考えるとして、本作では多くの反転描写がなされていることを記憶しておこう。

(III)⑧ゆらぐ描写:円筒の形態変化

ここまでは鏡合わせ/反転の概念を出発点に現実との比較で不自然なコマを見てきた。
ここからは概念を拡張して、(鏡合わせ/反転に限定せず)「現実では不自然な」コマを見ていく。
その観点から本作で違和感のあるコマを探してみると、以下、京本がAO入試静物画を描くコマがある。

対象物は円筒形なのに、キャンバスにおいては角筒になっているのは明らかにおかしい。
ここで、円筒は現実世界にそのまま存在しているのに対し、京本の主観を経由してキャンバスに描かれている対象物は、角筒に転換されている。
この経緯を踏まえ、現実:円筒⇔フィクション:角筒という転換が可能なのではないかと思い至る。
この発想を元に、本作において円筒に描写するのが自然である物を探してみると、以下のコマが目立つ。

本作では全ての場面において卒業証書入れが角筒で表現されている。しかし、一般的には卒業証書入れは円筒ではないだろうか。
ググってみても、円筒タイプのものに加えて挟み込む本のタイプは出てくるけれども角筒タイプのものは(存在はしているようだが)ほとんど出てこない
更に、卒業証書入れは正方形の角筒ではなく、上の辺がやや長い台形の筒として描写されている。タツキが美大出身であることを勘案すると、正方形の筒が描けないほどにデッサンの基礎すらおぼつかないとは考えにくい。
そうすると、本作においては、丸筒から角筒への転換のみならず、正方形から台形への歪みが描写されていることになる。

更に概念を広げ、丸で描写されるべきものが四角形で表現されているコマを探してみよう。京本の死を予感し京本に発信するも繋がらず、母親からの電話で訃報を知る藤野、さらに世界Bにおいて藤野と連絡先を交換する京本のスマホの画面に注目する。
ハードウェアの作りから藤野、京本が持っているのはいずれもAndroidだと思われる。母親からの着信画面を見ると、使用しているアプリはLINEだろう(iPhoneの着信画面もほぼ同様であるが、先ほど述べた通りハードウェアはAndroidである)。アイコンは丸枠になっている。
一方、京本Bが持つスマホの画面においては、藤野のアイコンは角枠になっている。
勿論、仕様しているアプリケーションが異なる可能性もゼロではないが、我々が現実世界で利用するアプリケーションでは連絡先のアイコンは丸枠になっているため、本作において角枠にする何らかの意図があるように思われる(少なくとも現実で使用しているアプリケーションを元に本作のスマホ画面を描いていることはないだろう)。

上記の通り、デッサンの対象物、卒業証書入れ、連絡先のアイコンにおいて丸⇔角の形態変化が認められる。
鏡合わせの描写と合わせ、この意味については追って検討する。

(III)⑨ゆらぐ描写:描写の不整合

上記のように見てみると、タツキは細かい点で整合しない描写をしている。
そこで、鏡合わせ・形態変化から更に概念を広げて(または別概念を持ち出して)「描写の不整合」という観点から本作をなぞると、まず以下のコマが気になる。

(i)藤野の部屋

藤野の読切作品(おそらく処女作のメタルパレードであろう)を読む京本を描くシーンだが、続く2コマで異なるカメラ位置が取られる。
両コマで描写される対象物のゆらぎを検証したいのだが、そのためにまずは基準となる線を設定しよう。それは壁に描かれている縦の線(おそらく壁紙の境目)とする。
2つのコマにおいて、この縦の線と床の平面との交点を探る。その確定した交点から床の平面上に、壁の縦の線の延長線を引く。これを基準線と呼ぶことにする。
まず左のコマにおいて絵がかられる本の山に注目しよう。基準線から本の山までの間には、床板(長方形3つを合わせた正方形を1つの単位とする)が2つとちょっとの距離がある。
一方、右のコマにおいては床板2単位以上の距離が基準線から存在しているが、本来描かれるべき本の山が描かれていない。(ペットボトルも描かれていない可能性もあるが、位置関係的に京本の身体で隠れているだけかもしれない)

ただ、この描写はもしかしたら背景の書き忘れかもしれない。その疑いは捨てきれない。
更に描写が揺らいでいるコマを探してみよう。

(ii)京本家-間取り
京本家の間取りである。
まず藤野が京本部屋の前までの道のりは下図の通り。

玄関を空けて突き当りまで進み左方向に、京本部屋まで続く廊下が伸びる。この廊下の左右にはスケッチブックが積み上げられている。表紙のデザインからマルマンのスケッチブックと思われるが、公式サイズは長辺が287mmである。スケッチブックの山同士には少しの隙間があるので、多少のバッファも考慮して一山30cm、そしてスケッチブックの山の列は京本部屋に向かって左の壁沿いに6-7列あることからすると、突き当りから左に曲がった廊下の長さは2m超と推定される。
一方で、突き当りから右に折れる廊下はすぐに扉にぶつかり、京本部屋に続く廊下と比べるとかなり短いことがわかる。

上記を踏まえた上で、京本の外観を見てみよう。

玄関の直ぐ左側には隣地のフェンスがあることに留意したい。また玄関横の部屋のみ明かりがついているが、これは京本の遺影が飾られていたあの部屋であろうし、間取りでいうと玄関から直進する廊下の右側にある引き戸の先にある部屋であろう。
外観を見ると明かりのついている窓の奥に、外壁がさらに外に突き出して存在していることから、京本の家は、玄関から入って右側の方に面積が広がっていく構造になっていることがわかる。
しかしながら、上記で見た通り、内部から見た時には、玄関から直進して突き当りを左に折れる方に廊下がより長く伸びており、その先には京本部屋がある。外観から見た時には、玄関の左側には隣家のフェンスがあり、その間隔は内部からみた京本部屋に続く廊下の距離、2m程度離れているようには見えない。
従って、京本家はその外観と内観で家の左右の構造が反転しているように思われる。より細かく言うと、京本の葬式が執り行われた部屋については外観と内観が一致していると思われるため、反転しているのは玄関から伸びた廊下が突き当りに至ってからである。

京本の家の歪みについて更に見てみよう。

(iii)京本家-玄関

京本が藤野先生を必死に追っかけて玄関から飛び出すシーンにおいて、玄関のその先には棚がありその上に植物が置かれているとともに、その背後には窓が見える(玄関脇の棚の上に植物が置かれている描写は、京本が藤野に手を振るコマにも小さく描かれていることにも注目しよう)。
しかしながら、内部から見た時に、この位置には棚は置かれておらず(むしろ逆側に置かれている)、窓すら存在しない。

これは単にタツキの書き間違いであろうか?

それを検討するために京本家玄関まわりの描写を見てみよう。

複数のコマで京本家の玄関周りが描かれている。
玄関に入って正面、ハイヒールとその右にハイカットのスニーカーが吐き捨てられている。向かって(家の中から見て)右の棚の前には長靴が置かれている。棚のしたの空間には、ローカットのスニーカーが収納されているように見える。
これらの描写は、本作において藤野が初めて京本家に訪れた際に多角的に描かれているが、それに加え、本作後半で、世界Bにおいて京本が藤野の来訪を受ける場面でも同じ位置関係となっている。
また、玄関に立つ藤野のポーズを見てみると、世界Bにおいて全身が描写される藤野は、左手を左腰に当てているが、世界Aにおいて後ろからのカメラ視点で映される藤野も左手を左腰に当てており、ポーズの描写が一致している。
本作において、分割された2つのシーンにおいて、玄関周りのアイテムの位置関係や藤野のポーズは一貫性を持って描かれている。
このような一貫性ある描写が本作中に存在することを勘案すると、翻って、本作中における非一貫した描写(それは上記で見たような京本家の内観と外観の反転だけではなく、鏡合わせや形態変化も含む)が意図的に行われていると考えてもよいように思われる。

(iv)通り魔が開けるドア

他にも整合しないコマはある。

通り魔が京本を襲う直前のシーン、大学に通り魔が侵入する際、ドアは両側が開かれる描写があるが、そのすぐ後のコマにおいては通り魔に向かって右側の扉はしまっている。この2つのコマの間で時間が経過し、向かって右側の扉がしまった可能性もゼロではないが、前に見た通り扉の開き方の不自然さを指摘する林編集がついているので、本描写においてもそこに特別な意図が無ければ彼からの指摘はあってしかるべきだろう。
また、仮に右の扉は開いて閉まったのだとしても、右手につるはしのようなものを持つ通り場が、つるはしのようなものを持ちながら両手を使って扉を両方開くだろうか。

(v)京本の部屋の家具
整合しない描写は京本の部屋の家具においてもみられる。

「出てこないで!!」の4コマが藤野Aから京本Bに渡った際に京本の部屋が描かれているが、ここで鳩時計の下に置かれた本棚は縦2列の同型のものが二つ設置されており、京本の机(ちゃぶ台)の左には、扉がついた本棚らしきものが置かれている(扉付きの本棚は、京本の背中が描かれるコマでより詳細に描写されているので合わせてご確認頂きたい)。
それに対し、藤野Aが京本の部屋に入った時、鳩時計は同じく壁に書けられているが、その下にある本棚は、1つは2列タイプであるがその隣に設置されているのは1列タイプのものだ。また京本の机の左に置かれた本棚には扉はついていない(後者の本棚は、京本の部屋で泣きながらシャークキックを読む藤野のコマで詳細が描かれている)。
京本の部屋の描写が一貫していないことが確認できる。

(vi)通り魔の報道内容
ここまでは本作における外形的描写における不整合を見たが、ここからは内容的な不整合を見ていく。
まずは通り魔についての報道である。

藤野が京本の訃報を聞いた際のニュースでは、「斧のような物」が凶器と報じられている野に対し、世界Bにおいて京本が襲われる際に描写される新聞記事(?)では、黒塗りのコマに白抜き文字で「先端の鋭利な工具」と若干の描写のブレが見られる。
ただ、世界Bは藤野の妄想だとする立場からすると、これは藤野の妄想に起因する現実との不整合と捉えることも一応可能である。
しかしながら、その藤野の妄想の中に限っても、新聞記事(?)では上記の通り、凶器は「実習棟で拾った」と記載されているのに対し、救急車で運ばれる直前の藤野は「隣町の道場でカラテやってるんですけど」「ランニングしてたらなんか武器持った野郎が大学にはいってってさあ~」と答え、通り魔が大学に侵入する時点で既に凶器を持っている供述をしている。従い、藤野の妄想の中でさえも通り魔の凶器の描写は一貫していない。

(vii)時間軸の不整合
本作では時間軸も整合していないように思われる。
まず小さい場の中での不整合について確認しよう。
世界Bにおいて、京本は2012年度にAO入試を受験している。京本が進学する大学のモチーフとされている東北芸術工科大学のHPでは、2022年度の総合型選抜入学試験[併願型](AO入試に当たる)について、試験日は2021年12月とされており、「2022年度」は2021/4~2022/3を指している。これを踏まえると、京本が受験したAO入試は(2022年度と概ね同様の受験日程が採用されているとして)2012年中には行われていることとなり、大学入学の時期は2013/4であろう。AO試験受験時、すなわち2012年においては京本は18歳(早生まれの場合は17歳)であるとすると、通り魔の犯行に見舞われる2016/1/10において京本は22歳(早生まれの場合は21歳)の大学4年生となる(従ってチェンソーマンの扉の絵は、その大きさを勘案しても卒業制作だろう)。
この大学入学時を起点にすると、小学6年生(12歳)時点では2006年、藤野の4コマが連載開始した小学3年生(これは、京本が藤本と初めて邂逅した時の「最初からっ3年生の頃からっ藤野先生の漫画っ見てました」という発言からわかる)は2003年のことになる。
しかしながら、藤野のカラテキックにより救出された京本が家に帰ってから藤野の過去作を眺めるとき、そこに「2002.6.11」という日付が記され、その下には4コマらしきものが貼り付けられている。2002年には京本・藤野は小学2年生であるが、上記の発言の通りその時点では藤野は4コマ連載を開始しておらず、時間軸が整合しない。

世界Aにおける時間軸も検証してみよう。
2016/1/10に京本暴行事件が発生する。
その時、藤野はシャークキックを11巻まで発行している。チェンソーマンは全11巻を1年10か月(2019/3/9~2021/1/9)で発行していることを援用すると、編集者から打診された通り高校卒業と同時にシャークキックが連載開始していることを前提とすると、2014/3あたりに藤野は高校卒業していることになる(早生まれでなければ18歳。京本暴行事件発生日とチェンソーマン最終巻発行日の日付が1日違いなのは気になるところだ)。
そうすると、藤野キョウが13歳(中1)で準入選したのは2009年ころ、本作の冒頭で藤野が書いた4コマが学年新聞に掲載されているのは4年生(10歳)でおよそ2006年ということになる。
京本の「最初からっ3年生の頃からっ藤野先生の漫画っ見てました」という発言から、藤野が4コマを学級新聞に連載し始めたのは3年生(9歳)の2005年あたりということになる。
これもやはり世界Bにおいて「2002.6.11」に4コマが掲載されていることと辻褄が合わない。


ここまで、鏡合わせ、丸⇔角の形態変化に加え、藤野の部屋、京本の家、通り魔の開けるドアと報道内容、時間軸について不整合があることを確認してきた。
冒頭でも見た通り、本作の構造は、さっと読む限りは以下の比較的単純な流れに整理できる。

しかし、多くの描写の不整合があることを勘案すると、上図の通り綺麗な構造には整理できないように思われる。上図でいうと、構成単位に見えていた灰色の箱は、よくよく描写を確認してみると更に断片化しないと整合性が保てないからだ。
この断片化された本作のかけらそれぞれを、構造化した一枚絵にまとめようとするとかなり難しいので割愛するが、読者が一見してつかみ取った比較的簡単な構造を本作は見かけ上は持っているように擬態してはいるが、実際のところ本作の物語の構造・描写はより細かくバラバラに断片化されている。
上で触れた不整合の描写は、一部はもしかするとタツキが単に間違っただけなのかもしれない。しかし、世界A/Bを跨いでも、京本の玄関付近に置かれたアイテムの位置関係や、玄関で藤野がとるポーズが一貫していることからすると、タツキは意図的に整合しない描写をしていると考えた方が自然なように思われる。

ではなぜ、本作は一見整合するように見えて実際には断片化され整合しない物語になっているのだろうか。
その回答は追ってすることにしたいが、とりあえず現時点では、題名が『ルックバック』であり、本作においては回想がいくつか仕込まれていることに留意しておきたい。

(III)⑩想像力:本作における想像力の象徴

上記の物語構造図を見るとわかるように、本作では4コマの移動が重要な役割を果たしている。ストーリーとしては、京本の死までの部分は漫画的表現が配され現実に近い描写がなされていることから、読者はここまで比較的リアルな世界感を想定して本作を読んでいただろう。
しかし、藤野が破いた「出てこないで!!」の1コマ目が世界Bの京本に届いた時、読者は、今まで現実らしい顔をしていた本作に、突然ファンタジックな展開が訪れたことに驚いただろう。
その後読み進めてみると、世界Bにおいては京本が生存することに読者は気づき、ああこれは京本の生存を願う藤野の願望なのだと予想していただろう。世界Bは世界Aと独立したものなのだと想定している。
しかし、ここでも更に驚きがある。世界Bと世界Aが、4コマを通じて接続された。さらにその後、4コマによって導かれた藤野が京本の部屋に入ると、自身のサインが書かれたどてらを発見し、『ルックバック』に更に複層的な意味合いが付与される。
ここで4コマを介してもと居た世界に舞い戻ることが、読者が新鮮な驚きを持つことに大きく貢献している。

(III)の前半において、光の描写を通じて、本作は想像力の欠如や過剰な発揮がなされること、その影響について描いていたことを確認した。想像力は光を媒介に描かれている。
ただ、本作において想像力は光を通じて描写されるだけではない。上記の通り、世界を飛び越える、また世界に舞い戻る時に4コマが重要な役割を担っている。世界Aとは別の世界Bを想像すること、また世界Aと世界Bを接続することは、4コマの特権的な役割として描写されている。ここでは、4コマは光と同様に想像力の象徴として描かれていると考えることが出来る。

このように本作における4コマの重要性を意識してみると、本作において4コマが移動しているシーンを一つ見逃していることに気づく。小6時、京本の画力に敵わないことを理解し、藤野が絵を描くことを辞めスケッチブックを捨てるシーンにおいて4コマが描写されている。

スケッチブックの山の上にある4コマ用紙が、その山を運ぶ際にするりと零れ落ちる。その運動の描写においては、輪郭線にエッチングのような線が描写され漫画的表現が用いられていることが確認できる。他の4コマが重要性を帯びていることを鑑みると、この4コマにも何等かの役割が与えられているような気もする。
その次のページでは、意図ありげに大き目の空白があり、その後卒業メッセージが隈なく書き込まれた黒板が描かれる。
この空白の意味はなんだろうか。単に、藤野が絵を描くことを辞めてから卒業式までの間に時間的空白があることを示すものとも理解し得る。ただ、4コマが持つ重要性を踏まえると、この空白は、藤野が絵を辞めた世界と、卒業式の世界が異なること、4コマが滑り落ちることが別世界への移り変わりを示唆しているのではないか。

そのように考えると、捨てられるスケッチブックの山から滑り落ちた4コマは、どの世界に渡ったのだろうか。
その後のシーンで描写される、京本の部屋の前のスケッチブックの山の上にある4コマ用紙がそれに当たるのではないかと私は考える。

よくよく考えていると、この場面で4コマが登場するのはやや唐突感がないだろうか。この時点以前に、京本は藤野と共に学年新聞で4コマを掲載していただろうから、京本が4コマ用紙を持っていること自体は理解できる。しかし、ほぼ部屋から出ず漫画を描くのは机の上だけと思われる京本が、部屋の外に空白の4コマ用紙を持ち出すことはあるだろうか。仮に、何かの表紙で4コマ用紙が部屋の外に出てしまうとしても、京本の親が4コマ用紙を京本本人に渡さずスケッチブックの山の上に置きっぱなしにすることは違和感がある。ストーリーを上記で追いつつ確認した通り、藤野の家に入りびたることを京本の親が許容していること、また京本の部屋に多くの本やスケッチブックがあり、それらを惜しげもなく買い与えているのが京本の親であることを考えると、やはり4コマ用紙を部屋の外に放置する親とは想像しにくい(物だけ買い与えて直接のコミュニケーションを避ける親とも考えられなくはないが、そうだとするとコミュニケーションを避ける理由は京本を刺激してしまうからと推察されるところ、4コマ用紙を放置することが京本を刺激してしまう可能性もあり、やはり4コマを放置する理由は弱い)。
このように考えると、この4コマは京本の部屋以外のどこかからやってきたと想像することが出来る。その出所は、絵を辞めた世界の藤野がこぼれ落としたものではないか。

上記の理解に立つとき、本作において4コマが移動した経路、及び4コマがたどり着いた世界は、以下のように想定される。

ここまでの説明で採用していた世界A/Bという区分はそのまま維持しており、藤野が絵を辞めた時に4コマ用紙がたどり着いた先、そして「出てこないで!!」により藤野と京本が繋がり、京本が死んでしまう世界を世界Cと新たに設定した。

世界A/Bのみと一見思われる物語の構造が、4コマに注目することにより更に断片化された。
また、上記で見た通り不整合な描写からそれぞれの世界においても更に断片化が可能であると考えることが出来る。
本作においては、一見地続きの物語が、実際のところ多くの断片のパッチワークであるように描かれている。
後半で検討するために問を立てておこう。

問.なぜ本作では不整合な描写や物語の断片化がされているのか。

ここまで確認したことをマトリックスに書き込むと下図のようになる。

(I) 本作はタツキの私漫画なのか?

ここまで(II)及び(III)における(A)と(B)について確認してきたが、(I)と(C)がごっそり抜け落ちている。
以降は、本作にタツキ自身をどれほど投影することができるだろうか、投影できるとすれば本作をどのように理解することができるだろうかを検討する。

私がインターネットで観測した読後の感想の多くは、本作がタツキの個人的エピソードである(またはそれが反映されている)と指摘する。その感想はそれなりに的を射た考えであるように思われるし、作者を作品に投影するのは多くの人がしてしまう解釈ではあるが、その結論に至るまでにはもう少しちゃんとした検討が必要だろう。単に「タツキも藤野・京本と同じ経験があるんだろうなあ」と妄想するだけでは説得力がない。

小説の世界では一つのカテゴリとして「私小説」というものがあり、「私小説(わたくししょうせつ、ししょうせつ)は、日本の近代小説に見られた、作者が直接に経験したことがらを素材にして、ほぼそのまま書かれた小説をさす用語である」(Wiki)と説明される。
マンガにおいても同様に、作者の経験が反映されている作品を「私漫画」と仮に呼ぶとすれば、本作はタツキの「私漫画」なのだろうか。多くの人が「本作はタツキの私漫画である」と考えているように思われる。ただ、本作を一見する限りではそのようには明言されていないように思われる。

(I)①インタビュー

では、一旦(C)作品外の材料を探してみることにしよう。
まずはタツキ自身が語っていることの一つとして、以下のインタビューを参照する。

藤本:絵が上手いと説得力になるじゃないですか。「まあまあ」の上手さのレベルだと僕の想いが漫画に込められないと思っているので、上手くならなきゃと…。あと上手くなれば描くスピードがあがると思うので、沙村先生みたいに絵が上手くなりたいです。

(略)

藤本:僕は読み切りを描く時は大体怒りで…。例えば、今ネット上で怒っている人が多いじゃないですか。そういう人たちって、Twitterとかで発散できていると思うんですけど、僕は自分の怒りなどをTwitterとかに書く気が知れなくて。漫画にぶつけているんですね。
藤本タツキ×沙村広明奇跡の対談

このインタビューは大分前のものなので、本作も同様にタツキの感情が込められているかを早急に結論付けることはできないが、少なくともこのインタビューを受けた時点では、タツキは漫画に自分の思いを込めていたし、そのような漫画の作り方を方法の一つとして持っている作者であることが分かる。

(I)②実在するモチーフ

次に、実在するモチーフを漫画に採用することについてタツキ、及び担当の林編集がどのように考えているかを見てみよう。

――実際に連載を始めてみて、最初の設定から変わった点はありますか?
藤本 宗教の部分です。
――作中に、宗教出てきますよね。
藤本 (作中に出てくる)それを実在する特定の宗教にしたかったんです。
担当(林士平 Twitterhttps://twitter.com/SHIHEILIN) ただ、それはこちらから“待った”をかけました。
――それは、いわゆるポリティカル・コレクトネス的な部分で?
担当 というよりは、実在の宗教にする必然性をあまり感じなかったんですね。どうしてもその宗教である必要があれば、喜んでOKを出したと思います。
https://konomanga.jp/interview/112091-2

これはむしろ林編集の考えだが、実在のものを漫画に登場させるにはその必然性が必要と彼は言っている。これは、実在するものを使うことの許可が必要(確かチェンソーマンでコベニが働くハンバーガー店はもともとマックだったが許可を取らなければいけないという理由で実在しない店名になったというエピソードがあったはずだ)という事務的な面もあるだろうが、より本質的には、「なぜ実在するものが、現実世界ではない漫画において登場しなければならないか、その理由が必要だ」という主張はその通りであろう。タツキも林編集と同じ考えである(というか林編集のこのような要求をクリアしないと掲載できない)とみなして良いだろう。

では、(B)本作において実在するモチーフは描かれているだろうか。
まず見つかるのは、京本が通う大学が、明らかにタツキの母校である東北芸術工科大学(TUAD:Tohoku University of Art and Design)をモチーフにしていることだろう。学校の外観が一致するし、最後のページで黙々と漫画を描く藤野の部屋には、大学名の略称TUADと校舎の外観が描かれたパンフレットらしきものが置かれている。このページには他に「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」のDVDっぽいものや、ジャンプ本誌っぽいものが置かれていたりするので、本作を描くにおいてベースとなる素材をこのコマで明示しているものと思われる。
大学側は、本作が公開された当日に校舎が本作で描かれていることをツイートしているため、事前にTUADとは本作公開に際して連絡を取っていたことがわかる。恐らく集英社はTUADに許可を取りに行ったのだろう。
上記のインタビューも合わせて考えると、本作でタツキが母校であるTUADを描かねばならない理由があったということだ。


他にタツキ自身の生活と関連しそうな描写はあるだろうか?
ある。
まず指摘出来るのは、藤野が絵を上手くなるために本を買いに行く書店は、にかほ市で今も営業している書店、ぶんりん堂であろう。タツキの出身である秋田の地元紙である秋田魁新報には、「にかほ市内の書店をモデルにしたと思われる本屋」が登場することが述べられている。
また、藤野と京本が初めての読切を持ち込むのは集英社だが、その外観の描写は、集英社HPで「企業情報→会社概要」と辿ると見ることが出来る画像と、角度が若干異なるだけで非常に似ている。
更に、藤野と京本が町に出かける際、道を渡るシーンで左上に描かれる「花」の看板を持った建物は、既に廃業してしまった山形市の百貨店である「大沼」のロゴ(朝日新聞による動画1:07~に百貨店のロゴが映る)に非常に似ている。
最後に、藤野が使う液タブはタツキが使っているWacom社製だ。

ここまで見てみると、本作においてはタツキの私生活とリンクする描写が意図的に盛り込まれている。
上記で見た通り、実在するものを漫画で描くことには必然性がある(第三者である本屋や百貨店は、ロゴをそのまま用いると許可の問題が生じるので若干変えているのだろう)。
その必然性とは、本作はタツキ自身ともリンクしていることを示唆することにあると思われる。つまり私小説ならぬ私漫画として本作を読むことができることを控え目に宣言しているということだろう。

ここまで見たような実在のモチーフが本作で描写されていることを踏まえると、タツキの生活とリンクしていると想像できるコマが他にもある。
例えば、一度漫画を辞めた藤野が家族と一緒にリビングでソファに座っているコマは、部屋が暗くなっているしテーブルにパーティ開きしたお菓子が置かれているので、家族で映画を見ているシーンと読むことが出来る。Rolling Stone Japan (ローリングストーンジャパン) vol.16 (2021年11月号。以下「RSJ」)のインタビューでは、幼少期はユニコーンというレンタルビデオ店で邦画を借りてよく見ていたとタツキが答えている。このインタビューでは意図的なのか単に勘違いなのかはわからないが、にかほ市にはユニコーンというレンタルビデオ店はない。代わりに「ビデオレンタルゆにこん」という店があり、Twitterを見る限り2013/8末までは営業していたようである。本作のこのコマは、タツキが幼少期に家族と「ゆにこん」で借りたビデオを見ている記憶に基づくものかも知れない。
他には、藤野と京本が町に繰り出すシーンで、「ミライのおクスリ」の隣に「Churchill」と描かれていると思しき看板がある。他方、「チャーチル会」という組織が「気楽な日曜画家たちの集まり」として実在しており、「いつも元気一杯、無邪気な日曜画家たち」という特色を持っているとのことである。資料を漁ってみると、秋田においてもチャーチル会が存在し、「素人もまじって絵を楽しむ会で、一時盛況を極めた」(あきた(通巻66号))との記載も見つかる。チャーチル会ヨコハマHPによれば、東北では秋田に加え仙台、福島にしかチャーチル会は存在しないようだ。HPにある会員名簿なども見てみると、チャーチル会は特に絵の経験がなくとも余暇を過ごすために高齢の方が参加できるような組織であることが伺われる。

ここで、『無限の住人』等の作者である沙村先生とタツキの対談記事を見てみよう。

藤本:僕の周りには予備校が無かったので、おじいちゃんおばあちゃんが通ってる絵画教室に通って、隅っこで油絵を描かせてもらっていました。僕はその頃全然絵が上手くなくて。上手くなり始めたのは大学生の頃でした。周りに上手い人が何人かいたので、「四年間でこいつらより上手くならなければ、俺はもうこいつらを殺す」って覚悟で、絵が上手いまま野放しにしてたまるかって思って描いていました。そのあと、油絵描いてても絵が上手くならないので、図書館にこもってずっとクロッキー的な絵を描いていたんですけど…、やっぱりデッサンするべきでしたね。
藤本タツキ×沙村広明奇跡の対談

下線部のタツキ発言は、上で見たチャーチル会の特色と符合するように思われる。タツキは秋田のチャーチル会で絵を描いていたのではないか。

他には、RSJで林編集が、まだ上京していないタツキと仙台で会った際に、両手に持ちきれない程本を買ってあげたというエピソードが語られている。それほど大量の本を持って歩くのは大変だろうし、タツキは在来線で山形へ、林編集は新幹線で東京に帰っただろうから、本を買ったのは仙台駅横のAERにある丸善の可能性が高い。これは、もしかしたら町で藤野と京本が本を選んでいた書店のモチーフかもしれない。本作の描写と丸善の本棚の比較は以下の通りだが、本作で描かれる本棚は、一番下の段に本が平積みされておらず、普通の棚のみで構成されている点が共通している(が、本屋はだいたいこんな感じなので偶然の一致だろうか)。

更に、藤野と京本が映画を見ているのも、今は閉店してしまった桜井薬局セントラルホールか、仙台駅前にあるチネ・ラヴィータか、あるいはTUADのある山形市のフォーラムかもしれない。

(I)③タツキ作品の背景

本作にはタツキの過去作品の背景が登場している。ながやまこはるちゃんもそのようにツイートしている。これにも何らかの意図があるはずである。

具体的に見てみよう。まず京本の4コマと過去作との関係は下図の通り。

また、本作で描かれる書籍や絵における描写も過去作が参照されている。具体的には以下。

そして、京本の卒業制作と思われる大型絵画は、CSMで度々登場するあの扉であろう。なお、扉に郵便受けがないことを見るとCSMの特定のページを参照していることが確認できる(他のCSMのページにおいては、あの扉には郵便受けが描かれていて京本が描く絵と整合しない)。

ただ1点注意したいのは、京本の1本目の4コマの1コマ目の筆致が、他のコマの筆致と異なるように見える点である。窓や階段あたりの描写は結構大味だが、他のコマ(特に同じ4コマにおける机や下駄箱の描写)とは大きく異なるように見える。
私は、1コマ目だけはタツキが描いたのではないかと思う(もっといえば、1コマ目のタツキが描いた下書きを元にして、CSM本誌においてアシスタントさんが背景を仕上げたのではないか)。

ここで、なぜ本作において過去作の背景が用いられているのかという疑問が浮かんでくるだろう。単に京本の絵の上手さを表現するだけならば、本作の他の背景同様に京本の4コマその他には本作初出の絵を描けばよい。しかしながらそうなっていないことを考えると、過去作の背景を用いることに何らかの理由があるはずである。
この時点ではまだ材料が不足していて検討するのは難しいので、後の解釈に役立てるために問を立てておこう。

問. 本作において、なぜ過去作の背景が用いられているのか。その中で、なぜ京本の4コマ1作目の1コマ目だけタツキが描いているのか。

上記で見た通り、インタビューでタツキは漫画に自分の感情を込める(ことがある)と言っているし、本作においてはタツキの生活や過去作に関係する(と思われる)描写があった。このような事情を勘案すると、本作はタツキの私漫画である、と断言はできないけれども、少なくともそのように考える余地はあるように思われる。

(I)④京アニ事件


なお、敢えてここまで言及しなかったが、多くの人は本作が公開された日付が京アニ事件発生日の2年後の翌日であること、及び通り魔の発言が京アニ事件の犯人の発言を模していること等を理由に、本作のモチーフには京アニ事件があるとしている。
私は、上記以外にも以下の材料により、その解釈は可能であると判断する。
まずアニメイトのインタビューでは、タツキは『涼宮ハルヒの憂鬱』、『氷菓』といった京アニ作品を好きなアニメとして挙げている。
そして『涼宮ハルヒの直観』発売記念企画にて、タツキは中学時代に学校の男子全員がハルヒによってオタクにされたとのコメントを寄せている。
そして何より、タツキのTwitter IDや過去ネットに漫画を上げていた際の名前は「長門は俺(Nagato Is Me)」である。


ここからタツキは京アニ、特に長門大好き野郎であることが分かる。


ここで少し視野を広げて、絵の上手さについて語るタツキの発言を見てみよう。

藤本:僕、連載終わったらアニメーターになることも考えていて。絵が上手いなと思う多くの方がアニメーターなので、アニメーターになればいいんじゃないかなと思ったんですけど、言うと馬鹿にされるから…。『日本アニメ(ーター)見本市』というのがありまして、そこで沢山作品を見られるんですけど、すごい作画を見るとどうやって動かしているんだろって思って。この画力があればなんでも描けるじゃないかと。だからアニメーターになろうと思っていたんですけど、それは違うってみんなに言われて。
藤本タツキ×沙村広明奇跡の対談

タツキはハルヒによってアニオタになった。彼をアニメの面白さに引き込んだのが京アニだったという意味で、京アニタツキの一つの人格を産んだ母である。また、上記インタビューからタツキはアニメーターの絵の上手さに憧れを抱いていることが分かる。彼にとって京アニのアニメーターは同じ絵を描く者として尊敬と羨望の対象でもあっただろう。
タツキと京アニの関係性についてはもう少し妄想を膨らますことが出来るのだが、一旦ここまでに確認した事項をマトリックスに書き込んでみる。


(II)罪悪感

次に(II)(C)について確認してみよう。
本作の後に発行された『藤本タツキ短編集 17-21』『藤本タツキ短編集 22-26』(以下、それぞれ「17-21」及び「22-26」として言及する。)のあとがきにまずは触れる。
「17-21」のあとがきにおいて、タツキは、大学入学後東日本大震災の復興支援のボランティアに行ったが大きな成果がなく無力感を感じたこと、そのような無力感のようなものがずっとつきまとっており悲しい事件があるたびに自分のやっていることが何の役にも立たない感覚が大きくなっていったこと、そのような気持ちを吐き出すために本作を描いたこと、本作を描いたことでちょっとだけ気持ちの整理ができたこと、短編集を見ていると無力感だけではなく楽しい記憶や色々なことを思い出したこと、を述べている。
このあとがきを参考にすると、「悲しいこと」、私なりに言い換えてみると「理不尽なこと」が起こった時に漫画は何の役に立てるのか、というのが、タツキが本作を描く上で立ち向かった課題であろうと思われる。
短編集のあとがきにおいて宣言されているタツキが抱える無力感は、藤野が抱いた無力感「なぜ漫画を描いていたのか」「描いても何も役に立たない」と強くオーバーラップしているように見える。

ここで、上記を踏まえて、無力感に関係する作品外の要素をもう一つ確認する。
ながやまこはるちゃんによる地震関連のツイートである。

いつも通り多少ふざけたトーンではあるものの、地震に対して特別な思いを持っていることが伺える。短編集のあとがきで触れられている通り、彼の地震に対する特別な思いは、当然ながら東日本大震災に関連しているものであるだろう。人の力ではどうすることもできない地震は、人の身に降りかかる理不尽なこととして意識されている。

ここで更にツイートを参照する。


健康であっても人は簡単に死ぬという認識をタツキは持っている。
それは何によって?東日本大震災のような理不尽なことによってであろう。
理不尽なことによって、それまで健康であった人が突然亡くなったりする。その時、漫画は、または自分は何の役にも立てないという無力感を、タツキは根源的に抱えているのだろう。

罪悪感については、タツキ自身は特に言及していないが、無力感と共に静かに抱えている感情であろうと思う。
少し話がそれるが、今や巨匠の域に達しつつある映画監督・濱口竜介東日本大震災に関連して東北記録映画三部作「なみのおと」「なみのこえ(新地町・気仙沼)」「うたうひと」をかつて撮っている。
www.youtube.com

このうち私は「なみのこえ(新地町)」しか観たことがないのだが(この記事を書いている現在渋谷Bunkamuraで濱口監督作品が上映中なので是非皆さんにも見て頂きたい)、その冒頭で被災した夫婦の話が語られる。夫(50代くらい?)は津波に一時飲まれながらも、幸運にも生還することが出来たことを語っていたが、同じ町に住む知り合いが津波に飲まれて死んでしまったことにも触れ、自分が生き残っていることに罪悪感を抱えていると話していた。
私も、仙台で東日本大震災に遭ったものの運良くそこから逃れられたが、友人の実家が被災していること、震災により死んでしまった人が数多くいることを意識すると、罪悪感が生まれる気持ちがよくわかる。
朝日新聞は、このように生存したが罪悪感を抱える人がいることを報じている。
このような現象には、サバイバーズ・ギルトという名称が既についているようだ。
自分より生き残る価値がある人が居たのに、その人は死んだ。でも、自分は生き残ってしまった。

なお、濱口監督は東北三部作を撮影した際に考えたことをYoutubeで公開している。また仙台メディアテークは、被災した人の語りを同じくYoutubeで公開している。いずれも東日本大震災を知る非常に良い参考資料になっている。
かたログ(1)「なみのおとプロジェクトとは?」 - YouTube
01 仙台で被災したふたりの女性① - おと - 3がつ11にちをわすれないためにセンター - 東日本大震災のアーカイブ

(III)想像力を頼りに生きることを決意する

この点については、正直作品外の要素で直接参照できるものは無いように思われる。
ただ、上記で触れた短編集「17-22」のあとがきでは、タツキは無力感を吐き出してしまいたいという思いで本作を描き、「ちょっとだけ気持ちが整理できた」と語っている。本作を作る過程で無力感と一定の折り合いを付けたことが示唆されている。無力感や罪悪感(東日本大震災に直接関係するものではないが、「22-26」のあとがきにおいてメダカを食べたこと、それを隠すために彼女に嘘をついた罪悪感も語られている)を抱えながらも、漫画を描いていくこと、タツキにとっては生きることそのもの、を続けていこうという決意が感じられる。

想像力についても明示的に語られることはないが、タツキは漫画家なので、生きていくことは、想像力の成果物である漫画を描き続けていくことと同義であり、その過程で想像力が当然動員されることになろう。

では、ここまでまとめたことをマトリックスに落とし込もう。

(I)(A)本作はタツキにとってどのような作品なのか

上のマトリックスでは(I)の(A)がぽっかりと空いているので、最後にこの箱の中身を考えてみよう。
上では、タツキは漫画に自分の感情を込めること、ルックバックを描くことで無力感を少し整理できたことが語られたと確認した。本作でも、その内容がタツキ自身とある程度関連すると考えても良いだろう。ここからはその詳細を検討してみる。

まず出発点として、タツキは「22-26」に収録されている「妹の姉」のあとがき(という程でもない短いコメント)で、同作が本作の下敷きにある作品だと語っていることを確認しよう。では、本作は「妹の姉」の何を下敷きにしたのだろうか。

以下のインタビューでは、「妹の姉」のテーマについて答えている。

「兄弟姉妹に対して”悪い意味”で離れられない」ですね。
創作物では兄弟姉妹の関係性って、良いものとして描いてあることが多いですが、殆どの人が悪い部分の方を大きく体験しているんじゃないか、って思っていて。
(略)
姉が絵をやめているのに、才能溢れる妹が家に描きに来るんですよ。
(略)
嫌ですよね、油絵って凄く臭いし。
【第66回】担当作家 藤本タツキ先生Q&A! - 運営からのお知らせ - ジャンプルーキー!

上記のタツキのコメントも踏まえ「妹の姉」で何が描かれていたか確認すると、それは、逃れられない関係性を有する妹に対する嫉妬と羨望によって自身を卑下してしまっていた姉が、交流を避けていた妹からの期待・尊敬の眼差しに気づくことにより、自身の心と正面から向き合う強さを得て、自身のありのままの姿を描くことに成功した、というのが私の理解である。
このうち、嫉妬と羨望の対象であった人物から尊敬されていることに気づき、主人公が前向きになるという点は本作でも構造として踏襲されている。この構造が、本作が「妹の姉」を下敷きにした内実だと思われる。

一方で、タツキはインタビューでこのようにも語っている。

物語を作るうえで、兄妹みたいな誰でもわかるような間柄なら、人物同士の関係性を紹介する必要が省けるじゃないですか。読み切りなんかで描きたいことを詰め込むために、削るとしたら関係性の説明の部分かなと思っているので、兄妹の話で読み切りを描いたんです。
「ファイアパンチ」藤本タツキインタビュー - コミックナタリー 特集・インタビュー

妹と姉という設定は、ページ数に限りのある読切作品において関係性を省略する工夫として用いられた装置である。本作では143ページという読切作品の範囲を超えた描写スペースを与えられたため、「妹の姉」においては省略されていた関係性をより丁寧に描写していると言えるだろう。従来はやむを得ず削らざるを得なかった登場人物の関係性を、本作でタツキはようやく描くことが出来た。
本作で丁寧に描写されたのは藤野と京本の関係性である。タツキ自身を本作に反映できると考えるならば、藤野と京本の関係性をタツキと関連付けて考えることもできるだろう。

それを考えるに当たって、今まで立ててきた問をいくつかまとめて、関連するテーマごとに検討していこう。

(I)①絵の上手さ

問.藤野と京本が考える「絵の上手さ」とは何なのか。
問. 本作において、なぜ過去作の背景が用いられているのか。その中で、なぜ京本の4コマ1作目の1コマ目だけタツキが描いているのか。

まずは、本作において藤野と京本が共に追求した、そしてタツキ自身も追い求めていると思われる「絵の上手さ」について検討する。

最初に参照するのは「無限の住人」の沙村先生との対談である。
以下、タツキの発言を引用する(下線は引用者)。「画力」について色々なことを話している。

藤本:最近『この世界の片隅に』が流行っているじゃないですか。こうの史代先生の描く女の子がすごくエロいなって思ったんです。特に足がエロく感じて。なんでかなと思ったら、足で演技しているからなんですね。等身が低くてホビットみたいなんですが、実在感がすごくあるしリアリティも高いんです。それは演技をしているからだったんです。それで僕、バナナマンさんのコントを見てる時にも思ったんですが、コントの短い時間の中で、そのキャラクターたちが本当に生きてるなって思ったことがあって。それはキャラクターによって鼻を触ったり、足踏みをしたりするキャラクターがいて。仕草でキャラクターの奥行きができたんですね。そういうのを描ける人って絵が上手いなって、観察眼があるなって思います

藤本:絵が上手いと説得力になるじゃないですか。「まあまあ」の上手さのレベルだと僕の想いが漫画に込められないと思っているので、上手くならなきゃと…。あと上手くなれば描くスピードがあがると思うので、沙村先生みたいに絵が上手くなりたいです。

藤本:僕の周りには予備校が無かったので、おじいちゃんおばあちゃんが通ってる絵画教室に通って、隅っこで油絵を描かせてもらっていました。僕はその頃全然絵が上手くなくて。上手くなり始めたのは大学生の頃でした。周りに上手い人が何人かいたので、「四年間でこいつらより上手くならなければ、俺はもうこいつらを殺す」って覚悟で、絵が上手いまま野放しにしてたまるかって思って描いていました。そのあと、油絵描いてても絵が上手くならないので、図書館にこもってずっとクロッキー的な絵を描いていたんですけど…、やっぱりデッサンするべきでしたね。

藤本:僕、連載終わったらアニメーターになることも考えていて。絵が上手いなと思う多くの方がアニメーターなので、アニメーターになればいいんじゃないかなと思ったんですけど、言うと馬鹿にされるから…。『日本アニメ(ーター)見本市』というのがありまして、そこで沢山作品を見られるんですけど、すごい作画を見るとどうやって動かしているんだろって思って。この画力があればなんでも描けるじゃないかと。だからアニメーターになろうと思っていたんですけど、それは違うってみんなに言われて。

藤本:僕の机の周りに沙村先生の作品が置いてありまして、大体いつも見ながら描いているんですけど、原稿がやばいって時だと見る余裕が無くて。全然真似できていないんです。人物の構図も余裕がなくて。凝った構図ですとページをめくる時に迫力があって、それだけで絵になるんですけど、下描きから時間を使ってしまうので無理だなと悔みながら…。本当はもっと雪もちゃんと描きたいんですけど、時間がなくて。人間がしゃべる時に吐く息も、本当は白くしたいんですが締め切り1日前とか死にそうになりながら描いていて、「もう俺も吐く息白くなくていいや」って思っちゃって。だめですよね。妥協しまくっていてすごく残念です。
藤本タツキ×沙村広明奇跡の対談

Q.今の自分が、あの時代に戻れたら何を重要視するか?
デッサンをしますね。学生時代は、クロッキーしかしていなかったので。
もっとデッサンをしっかりやっておけば、と今は思っています。
【第66回】担当作家 藤本タツキ先生Q&A! - 運営からのお知らせ - ジャンプルーキー!

ただ僕は自分の画力について「こんな絵でいいのかな」って常に悩んでいて。話題になったおかげで見てもらえる機会が増えたので、みんなにウケるような絵をうまく描かなきゃな、とは思っています。もし絵の部分で引っかかって、離脱してしまう人が増えたらもったいないなと。

現状僕が細部まで描き込んで、トーンもしっかり貼って、とやっていると、どうしても週刊のペースに間に合わないんです。その中でリアリティがあって、「いまキャラが何をしているのか」っていう状況がすごく伝わってくる絵を描くとしたら、沙村先生のようにやるのがいいかなと。
「ファイアパンチ」藤本タツキインタビュー - コミックナタリー 特集・インタビュー


まず、「画力」について、観察眼を裏付けとし、人間の仕草を描くことが出来ることが挙げられている。この仕草の描写によってキャラクターの実在感・リアリティ・奥行き・説得力が生じると言っている。
また、画力を有するのは多くがアニメータであることに触れているが、「どう動かしているんだろ」という視点から作画を分析していることから、キャラクターの動きに注目しているものと思われる。これは、仕草を通じてキャラクターの身体の動きに注目する視点と同様であろう。
これは、画力を獲得するためにはデッサンすること、すなわち、人間の骨格をはじめ対象物の動きの前提条件となるものを想像しつつ描写することが必要であるとタツキが述べていることとも整合的である。
また、人物の構図は仕草をよりわかりやすく読者に伝えるために必要な視点ということになるだろう。
加えて、タツキは雪や人が吐く息をもっとちゃんと描きたいと言っており(本論から外れるが、本作で藤野と京本が二人で雪道を歩くシーンでは白い息の描写がないので、時間が無かったのだろうか・・・)、これはそのシーンのリアリティを高めたいという趣旨だと思われる。
上記の通り見てみると、タツキにとって画力を獲得する目的は、人間をリアルに描くことにあるようだ。

一方、人物の構図については、一応「迫力があって、それだけで絵になる」とも述べており、これは仕草の描写とは別の視点かと思われる(実際、沙村先生は構図に拘るのを男性的視点と整理している)。
リアリティの追求とは別に「みんなにウケるような絵を上手く描」く視点も持っており、これは沙村先生のいう男性的な視点から構図に着目する立場であろう。ただ、タツキにとってこの視点はあくまでも読者の関心を引き付けるためのもので、いうなれば彼が漫画を描いて生計を立てるための技術ではないか。

ダンダダン作者の龍先生のインタビューでも、タツキや賀来先生との話題は台詞や服等の"マジ感"や作品の構造だと話されている。この"マジ感"は、タツキの追求するリアリティと同義だろう。

龍 藤本くんもゆうじさんも人間的に考え方がすごく特殊というか、いいなと思っていて。細かいことで言うとキャラクターの“マジ感”みたいな話はよくしていました。さっきも話題に出ましたが、「こいつはこの服着ないだろう」とか「こういうこと言わないだろう」みたいな、キャラクターの実在感に関わる部分ですね。

龍 完全にそうですね。絵の話とかあまりしないです。僕も絵の話って聞かれたらするけど、自分からは特に話さないです。作品の構造の話とか、このセリフがどうだとかそんな話ばかりしていました。
「全国書店員が選んだおすすめコミック2022」第1位獲得記念 龍幸伸インタビュー「ダンダダン」を描くうえで譲れないキャラの“マジ感” (2/2) - コミックナタリー 特集・インタビュー

さて、ここまではリアリティを高めるための「画力」についてタツキその他関係者が語ってきたことを確認してきたが、「絵の上手さ」に関係するのは「画力」だけではないものと思われる。
それは何かを考える時、まずは本作において藤野キョウが準入選した時の担当者のコメントにおける「話と背景」という区分は役立つように思われる。また、元アシスタントの賀来先生は以下のようにツイートしており、「絵と作劇」を漫画における主要な二つの要素として言及している。


これらを踏まえると、まず「絵の上手さ」の一つの軸は「画力」であり、これは「背景」や「絵」としても触れられる。これを化体するものとして、過去作品の背景が採用されている。
もう一つの要素は、担当者のコメントにおける「話」、賀来先生の表現を借りるならば「作劇」であり、ストーリーや物語の構築力を指すものと考えられる。以後、この物語の構築力を「作劇力」と呼ぶことにしよう。なお、冒頭の問が「絵の上手さ」という言い回しを使ってしまったので、ストーリー・物語は「絵」ではないじゃんという指摘も正当だが、ここでは少し範囲を広げて「優れた漫画の要素とは」という問に変換して考えてもらうと良いだろう。
「優れた漫画」には「画力」と「作劇力」が必要である。
そして、本作においては「背景」を京本が担当し、「話」は藤野が担当していたので、漫画の2要素をそれぞれ京本と藤野が担っている構造となっている。
ただし、京本の訃報を聞いた藤野が回想するシーンにて、藤野が「すっごい超作画でやりたい」「私もっと画力上がる予定だし!」と語っているように、藤野は「作劇力」のみを追求しているわけではなく「画力」の向上を同時に目指していることも忘れるべきではない。
また、京本も、背景を描き続けているのは、人間が怖くなって不登校となったという告白を考慮すると、本来的には人に対する興味はあり、人が織りなす「物語」にそもそもの憧れを抱いていたのではないかと考えられる。この、京本が持つ物語に対する関心は、世界Bにおいて「出てこないで!!」の1コマ目を受け取った京本の部屋に、4コマが二つ貼り付けられていること、また世界Aにおける京本の部屋の窓にも(はがれたものを含めて)8つの4コマが貼り付けられていることからも窺い知ることが出来る。更に、世界Bにおける京本の制作部屋にも、京本が人や、それがもつ心について関心を持っていたことを示唆するような描写がある。

上のコマにおいては、卒業制作を行う京本の左後ろに本があり、よく見ると「MONET」の文字が書かれている(その下に描かれている本にも何か字が書かれているが判別できない)。また、下のコマにおいて京本は参考画像として、マレーヴィチの「シュプレマティズム」を壁に貼り付けている。
当然ながら、いずれも京本が卒業制作を作るに当たって参考としている要素である。モネは皆さんご存じの通り印象派に属する画家である。私は美術には特に詳しくないのだが、作者の主観を絵画に落とし込むことを追求したのが印象派という理解でいる。
またマレーヴィチは自身の著作「無対象の世界」において、彼が主題としたのは感覚そのものであり、抽象図形の構成がそのような純粋な感覚を表現し得ると考えているようである(参考)。
学年新聞の4コマでは、京本は恐らく人を恐れて背景しか描くことが出来なかったが、その方向が先鋭化して写実的な対象を追い求める中で「背景美術の世界」に魅了されていった。京本は大学でデッサンを重ねる中で画力を研ぎ澄ませていくが、その対象はやはり人のいない背景的な対象物のみであった。しかし、卒業制作に取り掛かるまでの間に何らかの変化があり、写実的な表現から、印象派のモネや抽象主義のマレーヴィチのような表現に遷移していった。その時、対象物そのものを超えて、主観を重視する精神性が京本の中に存在していただろう。まだ、人一般を絵画の対象に選ぶことは出来ないけれども、少なくとも自分の主観に目を向ける変化は彼女の身に訪れている。そして、その成果物としての卒業制作には、CSMにおけるデンジの心の中のドアが描かれており、人が持つ心・主観への関心が京本自身の作品として現れている。京本の成長が伺える描写である。


ここで、本作とリンクするタツキ自身について考えてみる。
まずタツキは、TUAD卒業生の紹介ページにおいて「油絵と物語をつくることが大好きでした」と語っている。
また沙村先生との対談では以下のようにも語っている。

藤本:そうですよね。僕も大学は油絵学科だったんですけど、AO入試で入ったのでデッサンしたことがなかったんですよ。今もデッサンは数回しかしたことないんですけど。特に油絵なんて感覚的なものに任されちゃうから、絵なんて上手くならないですよね。
藤本タツキ×沙村広明奇跡の対談

タツキは元々油絵と物語が好きで、漫画を作る上で物語の方はそのまま使えたけれども、油絵の方は使えなかった。漫画で必要な画力を培うためにデッサンをしておくべきだったと反省している。ただ、「画力」は漫画を描かなければいけないから必要なものであって、本来的には油絵が好きなタツキは変わっていないのではないか。そのような油絵を未だ愛するタツキを反映するものとして、卒業制作時にモネとマレーヴィチを参照する京本が描かれていると思われる。ながやまこはるちゃんも家族とパリに行ったことがあるようなので、ルーブル美術館あたりで印象派絵画を目にしているかもしれない。


ところで、タツキが「画力」を追求する理由はリアリティを高めるためであった。リアリティを高めるとは、具体的には人間をより精密に描写するということであろう。その観点からは、印象派や抽象主義において重視される主観あるいは心を理解することは、人間をより深く理解することに繋がる。一方、物語も、人間の反応やそれによって発生する出来事に注目することで、人間をよりよく理解するために活用され得る。
従って、「絵」も「物語」も共に人間を深く理解することを目的としている。


(II)②不整合な描写・物語の断片化

次の問に移ろう。

問.なぜ本作では不整合な描写や物語の断片化がされているのか。

「ルックバック」という題名から感じられるに、本作では回想のシーンが多い。回想とは記憶を辿るプロセスである。昔の出来事を思い出す時、その思い出された内容は必ずしも過去の出来事そのものとは一致しないし、思い出された内容同士も一貫するとは限らない。また、記憶は毎回一まとまりでは必ずしも思い出されるわけではない(一部の場面のみ思い出されることもある)。記憶は、整合しないことがあるし、断片的にしか立ち現れないことがある。本作における不整合な描写と断片化は、回想によって再構成された記憶に一貫性がなく記憶が切れ端に過ぎないことを反映しているように思われる。
京本の訃報を聞き藤野が回想するシーンにおいては、強く降る雪が枠線を浸食する形で、更に原稿用紙の地をそのまま残す形で描写されている。回想は、記憶やそれに関連する想像力によって生成されるが、思い出せないことを考えることはできない。思い出せないこと、描けないことが、この回想シーンにおける雪の描写に表れているのではないか。


問.なぜ本作では漫画的表現が抑制されているのか。

本作においては多くの漫画で用いられる漫画的表現は意図的に用いないようにしているように感じられる。その中で、4コマが手から零れ落ちる際の動的描写、通り魔の暴行場面における効果線等が意図的に用いられている。
まず本作において漫画的表現が抑制されている理由として考えられるのは、タツキが本作のリアリティを追求したいと考えたため、という説明である。
ここでいるリアリティとは、我々の住む現実世界においても実際に発生しうる出来事として本作を描く、ということである。
現実世界においては、オノマトペ漫符や効果線は物体として勿論存在しないし、他者の心境がナレーションとして表現されることはありえない。現実世界における他者とのコミュニケーションは、身振り手振りと、発話を含む音声によってなされる。
本作は、現実世界に近い世界を描写するために、漫画的表現を抑制しているものと考えられる。

ただ、理由はそれだけでは無いようにも思われる。
もう一つの理由を説明する前に、まず本作で限定的かつ意図的に漫画表現が用いられていることについて考えてみよう。本作において漫画的表現が用いられているのは、(i)4コマが世界をまたぐ運動描写においてと、(ii)世界Bにおいて京本が通り魔の襲撃を受ける場面においてである。
まず(ii)について考えてみると、これは京本が死ななかった世界を、漫画的表現を用いたフィクションとして明確に宣言しているということだろう。更に言えば、フィクションとしてしか受け入れることが出来ない、漫画的表現を排除した現実世界に近しいものとして描写することは許容出来なかったとも考えることは可能である。それほど京本の死が与えるショックが大きすぎて、現実の出来事として受け止めきれない心が本作の描写からは感じられる。で、それは誰の心?後述するがタツキの心ではないだろうか。

次に(i)については、(ii)で説明したフィクションという切り口がこちらでも利用できると考えられる。本作の構造を図示した際、藤野・京本の関係性を変化させる契機として4コマが機能していることがわかる。最初の4コマ登場シーンである卒業証書を届ける際には、同じ世界Aにおける藤野・京本の間で4コマが移動していたが、その後世界Aの藤野Aから世界Bの京本Bへ4コマが移動する。そして、藤野Bに救われた京本Bが描いた4コマが藤野Aに渡る(ように見える)。
このうち後ろの2つの4コマは、世界を跨いでいる。そして世界Bは、世界Aと異なる場として描かれている。ここで4コマは、世界Aを基準として、世界Bというフィクションを立ち上げる役割を担っている。このように考えてみると、4コマの運動描写に漫画的表現が用いられているのは、4コマがフィクション生成の契機であることに対応しているものと思われる。

上記のように考えてみたとき、本作において漫画的表現が抑制的である理由について、現実世界と近しい場を作り出す以外の意図が見えてくる。本作において漫画的表現が抑制されているということは、本作は漫画としては口ごもっている、決して流暢には語れないということを示している。漫画的表現を活用して雄弁になる程、京本の死は軽くないということであろう。まあ勿論、とても辛いことをシリアスに伝達することを避けるために、敢えて明るく口数多めに語るということはあり得る。しかし、一方で、辛いことはそもそも口に出すにも憚られるという態度も十分あり得る反応である。本作は、漫画として後者の反応を見せている。

本作は、基本的には漫画的表現を抑制して、京本の死というショッキングな出来事を、感情の起伏を抑えて淡々と描写しようとする。しかしながら、いざそれを描こうとする時に、現実世界として受け止めることは難しいため、敢えて漫画的表現を用いてフィクションに仕立て上げ、心から距離を取った上で描写しているのではないだろうか。
この表現形態は、罪悪感・無力感の表れでもあるだろう。

藤野が過度に自責したシーンで「京本っ部屋から出さなきゃ 死ぬ事無かったのに」と語っている。京本の死を受け止めきれず、藤野は「あの時あれをしなければ」という想像力を動員している。恐らく別の場面では「あの時あれをしておけば」とも後悔していただろう。
理不尽なこと、悲しいことが起こった際、想像力やフィクションによって現実をやり過ごすことができる、そのような力をフィクションは持っていることが描写されている。


(II)③並存する世界への想像力

では、最後の問の答えを考えてみよう。

問.世界Aと世界Bはどのような関係か。

上で見た通り、4コマの移動先に注目することにより、本作の構造は世界A/Bだけではなく世界Cも存在することを確認した。
そのため、上の問は、複数存在する世界A/B/Cの関係性を問うものに変えることができる。
それを検討する際に出発点とするのは、本作における鏡合わせや反転の描写である。
藤野が京本の部屋で、自身のサインが書かれたどてらを発見した後の回想で、京本の横に置かれた読切作品のネームには反転した「やめて!!」の文字が確認できる。鏡合わせの概念は、本作において明確に提示されている。そのコマの下には、鏡合わせにはなっていない正常と思しき描写がされている。また、この時の回想における最後のコマでは、タンクトップを着る小学生の藤野が描かれるが、同時にベッドで笑い転げる京本も描かれている。すごく下世話になってしまうが、この京本の胸は小学生にしては大きすぎないだろうか。読切作品を作っている際の取材旅行で、水族館や東京タワーの前でピースする京本は、ここまで胸が大きくない。そのため、最後の回想のコマでは、小学生の藤野と、より大人になった京本が同じ場面に描かれていることになり、時間軸が歪んでいる。(因みに、藤野と京本が女性である理由は、髪の長さや身体的特徴から時間の推移を感じさせることができる点にあるものと思われる。)

鏡合わせの表現から、私は、二つの鏡を正対させ合わせ鏡としたとき、鏡には相互に反射して複数の世界が立ち現れることを想像する。
鏡合わせの概念により、複数の世界が想像力によって作られる。そのように立ち現れた複数の世界は、可能性の束である。どういうことか?

先ほど、自責する藤野は、京本を部屋から出さなければ彼女は死ぬことがなかったという想像力を用いたことを確認した。ここで藤野は、京本が死なない可能性を想像している。
また本作においては、絵の才能の他に運動神経やコミュニケーション能力を備えた藤野、藤野が持つような運動神経やコミュニケーション能力を持たないが絵の才能は卓越している京本に加えて、絵の才能がない(もしかしたら運動神経やコミュニケーション能力もない)通り魔が描かれる。これらの描写から、私は藤野や京本が通り魔になる可能性も含めてタツキは描きたかったのではないかと考える。
本作において藤野が通り魔に対し怒りを表す場面がないことも、このように理解する補足材料になり得ると考えられる。通り魔を、自分がそうなる可能性のない存在として位置づけるならば、それに対する怒りが描写されても良いはずだ。しかし、本作においては藤野は京本の死に対し茫然とするだけであり、通り魔に対してはカラテキックとパンチをお見舞いするだけである。通り魔をもっとボコボコにする描写をすることも可能であったが、そうはなっていない。これには、藤野も京本も通り魔となり得る可能性があることを認識した上で、通り魔をボコボコにするまでには非難できない、通り魔には通り魔なりの理由があったということを踏まえての描写ではないかと思われる。

絵を辞めてカラテに打ち込む藤野は明確に描かれているが、それ以外にも、運動神経がないがコミュニケーション能力はある藤野、運動神経もコミュニケーション能力もない藤野、絵の才能がなかった京本などなど、様々な可能性を感じさせるような描写がなされていると考える。その様々な可能性が束になっているものとして、鏡合わせで立ち現れる複数の世界が存在することが示唆される。
なお、世界Bを藤野の妄想とする考えもあるかもしれないが、世界Bにおける京本の部屋の本棚は、2列+1列であったり扉がついていたりして、世界Aにおける本棚よりも複雑性が増している。世界Bが藤野の妄想であれば、複雑性が強化されていることには違和感があるので、私は世界A/B/Cは鏡合わせで立ち現れる可能性の束(並行世界と言ってもよいかもしれない)と理解する。

悲しい事件が起こった時に漫画は何が出来るのか

タツキにとって本作を描いた理由は、「17-21」のあとがきにあるように、悲しい事件が起こった時に自分のやっていることが何の役にも立たない感覚を吐き出すことにあった。そして、おなじくあとがきで語っているように、ちょっとだけ気持ちの整理を付けることが出来た。その過程におけるタツキの心境(ただし私の推測が含まれている部分もあるが)は、ここまで細かく確認してきた通りである。藤野やタツキにとって漫画を描くことは即ち生きていくことであるが、京本の死を心に抱えつつ最後に漫画を淡々と描くことを選択した藤野を想像力によって描き出したことで、タツキにとっては本作を描き上げた意味は確かにあった。
また、藤野は京本の部屋で、シャークキックの11巻189ページを涙ながらに読む。11巻で第一部が一旦終わりを迎えている点で、シャークキックはCSMを参照していると思われる。CSMの11巻189ページで描かれているのは、ナユタ(及び転生元であるマキマ)が、ハスキー犬に囲まれながらデンジに抱かれ、「他者に抱かれる」根源的な欲望を叶えられる極めて重要なシーンであった(CSM11巻の167ページにページ表記があるので確認してほしい)。

藤野にタツキを投影できるとして、またシャークキックはCSMを参照しているとすれば、シャークキック11巻p189を読んで泣いている藤野は、CSM11巻p189を描いて自分の気持ちが整理できたタツキと重ね合わせることも可能かもしれない。


では、我々読者自身が、「悲しい事件が起こった時に私は何の役に立てるのか」という、タツキと同じ罪悪感・無力感を持つとしたら、本作はどのような役割を持つことが出来るだろうか。上の段落では、「タツキにとっての本作の役割」を確認したが、ここで更に考えたいのは、「読者にとっての本作の役割」であり、対象が拡張されている。
思えばここ数年は、悲しいことや理不尽なことが多すぎたように思う。敢えて個別の事象を明言する必要はないかもしれないが、コロナウイルスの感染拡大及びそれに伴う死者の増加や経済の停滞、最近ではロシアによるウクライナ侵攻、岩手県沖を震源とする最大震度5強の地震発生といったマクロレベルな事象に加え、個々人レベルでも悲しいこと、理不尽なことは数多く起きている。このような状況において、医療関係者や軍事関係者ほど問題を解決する術を持たない人々は、どのような形で課題解決に資することが出来るだろうか。

理不尽なことが起こった時には、我々の多くはどうしようもない。まずはその無力感・罪悪感を引き受けることが出発点であろう。自分の能力を過信して、自らが問題を解決することが出来るという認識は事実と異なっている(読者が国家レベルの重要人物であれば別だが、多くの人はそうではないだろう)。
無力感・罪悪感をきちんと引き受けた後、問題解決の直接的な策を持たない我々に必要なのは、想像力によって問題の原因や理由、その後の展開を推測すること、起こってしまった理不尽なことの全貌を理解しようとすることが必要だろう。そして、想像力によって自体を把握し、もし問題解決に向けて自分で出来るような対応策(ただし、多くの場合それは直接的な解決方法ではなく、間接的な方法に留まるだろう)を講じることが出来るとすれば、世界は少しだけでも良くなるかもしれない。
本作を読むことで読者はこのような認識を獲得できる、または改めて意識することが出来るかもしれない。その意味で、「読者にとっての本作の役割」は果たされている。
ただ、これは抽象的に書いたのでやや分かりにくいかもしれない(または「そんなの当たり前だ」と思って、ここで書かれていたことは特に役に立たないという結論に流れるかもしれない)。日常生活に援用できるような、本作に触発された想像力の使い方を確認してみる。
ここまで、本作は合わせ鏡の描写や物語の断片化によって、複数の可能性ある世界を提示した。その世界においては、絵の才能・運動神経・コミュニケーション能力を持った藤野、運動神経・コミュニケーション能力は無いが絵の才能は突出した京本、そして絵の才能が花開かなかった(もしかしたら運動神経・コミュニケーション能力がない)通り魔が描かれる。藤野が最後のシーンで絵を描くことに戻ることが出来たのは、数多くの「たまたま」が重なった結果であり、もしそのうち一つでも「たまたま」が欠けていたら、もしかしたら通り魔のような人物になっていたかもしれない。逆に、通り魔にもあのような惨事を起こさざるを得なかった事情があるかもしれない。
そのように考えられるとすれば、現実世界に起きた悲しい事件の当事者(それは犯人も含む)に対して、本作の読者は、その当事者の背景事情を想像することができるのではないだろうか。
タツキにとっての本作の役割」として、彼自身の無力感・罪悪感を整理する事に触れたが、読者がこのように本作を読み解く時、それが更に「タツキにとっての本作の役割」になるかもしれない。タツキは昔から物語を作ることが好きだった。物語やフィクションは、現実の悲しい事件を乗り越える力を持っている(その具体例として本作でも参照されているのが「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」であった)。タツキはそのような現実と折り合いを付ける力を持つ物語を作りたかったのではないか。もしそうだとしたら、またもし読者が本作を読むことで他者への想像力を強化することができるとしたら、それもタツキが期待していた本作の役割の一つではないだろうか。

このように考えてみると、「ルックバック」という本作の題名に込められた意味を更に深掘りすることが出来るかもしれない。
今まで多く言及されてきた「ルックバック」の意味とは、
①藤野・京本が漫画を描く「背中を見る」
②京本が絵の上手さで藤野に追いつこうと「背中を見る」
③藤野が、自分のサインが書かれた京本のどてらの「背中を見る」
④過去を「回想する」
⑤本作に描かれた過去作の「背景に注目する」
あたりだろうか。

ここまで確認してきた、本作を読むことで駆動する想像力を振り返ってみると、これらに加えて、
⑥他者の「背景事情(background・backbone)に想像力を及ぼす」
という意味が込められていると考えることも可能であるように思われる。

私の妄想

ここからは単なる私の妄想なので読む必要はないが、本作を描くまでに、タツキはもしかしたら以下のような経験をしているかもしれない。

「17-21」のあとがきにあるように、タツキは17歳でTUADに入学した、とのことである。ながやまこはるちゃんのツイートによれば、タツキの誕生日は10月10日であるらしい。

しかし、早生まれでなければ大学入学時点で17歳であるはずはないので、恐らくタツキは林編集と初めて会ったのが17歳の時なので混同しているのではないだろうか。
秋田市文化創造館HPに掲載されたタツキのコメントには1992年生まれとある(流石に公的機関には正式な生年を提出しているであろう)。震災が発生した2011年には18歳の計算になる。また、TUAD卒業生のインタビューでは2014年度卒(2015/3に卒業)とあり、留年が無ければ22歳で大学卒業する時間軸と合う。更に、タツキの母校である仁賀保高校の同窓生サイトでは、タツキは32期生の情報メディア科卒であると触れられており、これは2021/3末に42期卒業生に向けて発行された仁賀保高校校長室による卒業の言葉とも整合する(32期生であるタツキは、42期生が卒業する2021/3末から10年前の2011/3末に仁賀保高校を卒業していることになる)。

タツキは、TUADにおいて同じく京アニ作品が好きな人物に出会う。彼の名前は佐藤宏太、タツキの2個上の先輩であった。宮城県岩沼市(以下、「岩沼」)出身である。岩沼は、仙台空港がある宮城県東部の市であり、東日本大震災の大きな被害を受けた地域の一つである。
www.youtube.com

佐藤くんも当然、被災していた。
タツキの地元である秋田やTUADがある山形は東日本大震災の被害はそこまでなかったものの、同じ東北の他県が大きな被害を受けたこと、友人である佐藤くんが被災時の様子について話した内容にショックを受けたことで、タツキは復興活動に参加するために石巻でボランティアを行う(「17-21」あとがきご参照)。しかしボランティア活動は結局重機の働きに比べると微力であったし、佐藤くんの心の傷を癒すこともできず、タツキは無力感を抱えるばかりであった。ただ、佐藤くんとは同じ京アニ作品、特にハルヒが好きな点で一致していたし、佐藤くんはアニメーターになる夢を持っていたので、一緒に絵を書きまくってお互いに技術を研鑽した。タツキは度々、佐藤くんに京アニに絶対入ってね!と激励の言葉を掛けていた。
そうして大学生活を過ごし、二人は2015年に卒業した。タツキは漫画家を目指し山形県で彼女と二人暮らしをしながら、読切作品を書いては林編集に送っていた。佐藤くんは、念願叶って京アニにアニメーターとして採用された(傍論だが、TUADの卒業生はMAPPAにも就職しているので、京アニへ就職する人がいたとしても不思議ではない)。タツキはそれを素直に祝った。佐藤くんは、いつかタツキに自分の原画が採用されたアニメを見てもらうことを夢見た。

ところで、タツキはpixiv等を通じて絵師と繋がっていた。その中でとても絵が上手い女性に出会った。タツキは彼女に対し漫画家になるよう声をかけたが、彼女からは絵が上手いだけでは漫画は描けないと否定されてしまう。タツキはそこで、話も勉強すればよい、もしその彼女が漫画家になれなかったら自分はパイプカットをすると強気で迫る。
(無粋なので直接リンクは貼らないが、ツイッターには当時のやり取りが残っている。)
彼女は、漫画家にはならなかったものの、今もアニメーターとして活躍している。

2019年7月18日、京アニ放火事件が発生する。タツキは26歳であった。
2019年8月、被害者の実名報道がなされた。大学時代の知り合いからうっすらと聞いていたが、タツキは報道内容により、佐藤くんが亡くなってしまったことを知る。被害者の中には、一番好きなハルヒのキャラクターを描いた寺脇さんも含まれていた。

タツキは、佐藤くんの死により、更に強い無力感・罪悪感を抱くようになった。

念のためですが、これは私の妄想です。


[20230722追記]
スタジオジブリ物語』発刊記念で、ジブリ作品の魅力をタツキにインタビューする記事が出ている。
そこで以下のやりとりがなされている。

――藤本さんの中では「話をつくることに集中したい」という思いもあるということですか?

藤本 はい。絶対そっちのほうが楽しいと思います。

――逆に、絵だけを描く方向に行ってみたいという気持ちは?

藤本 それはないですね。話と絵を両立させる楽しさはもちろんあるし、話だけの楽しさもあると思うんですけど、絵だけとなると、僕の場合は皆さんに届けるときに狭い世界になっちゃうと思うので。

【藤本タツキ1万字インタビュー】漫画家・藤本タツキが語るジブリ作品の魅力とは。満席の映画館で『千と千尋』を立ち見した「原体験」から宮﨑駿監督への想いまで | 集英社オンライン | 毎日が、あたらしい

これは、タツキがアニメーターになりたいと言っていた過去のインタビューとは逆方向の内容になっている。
もしかしたら、京本の死は、本作を描くことを通じて「絵だけを描く方向」と訣別することを戯画的に描いた一面もあったのかもしれない。