予感の手触り

感想の掃き溜め

風立ちぬ

映画『風立ちぬ』公式サイト

千と千尋の神隠し」以来、久しぶりにジブリ映画観てきた。
むー、普通。アンテナ立たなかったなー。


一応自己弁護のために言うと、物語の主題は大方掴めてたと思うし、細かい描写に「なるほどな」と舌巻いた場面もあったけれども、
全体として自分の身に落ちるようなカタルシスというか、共感というか、そういうものは無かったので、単純に事実として私の表面を滑り落ちてしまったよ。

この理由はきっと、私が登場人物の気持ちに寄り添ってなかったんだと思う。
自分の作った戦闘機が破壊殺戮侵攻それに類するものの道具になってしまう、それでも尚「美しさ」を求める二郎の気持ちとか、
「美しさ」に囚われた二郎を深く愛して、「美しさ」以外の在り方ができなかった菜穂子の気持ちとか、
そんな菜穂子の気持ちを慮って大粒の涙を流す加代の気持ちとか、
そういうものが、加えてそういうものを「想像する」意識が、私の中に無いのだろうと思う。

たぶんこの映画が刺さってる人は、大まかに分けて上記3つの心を持っているんだろう。
違うよなー、人種が、と思う(人として付き合えないとかそういう意味ではない)。


演出のお話に移ろう。煙、の描写。これを見てた。
煙が登場するのは、夢の中飛行機(エンジン・プロペラ)、震災による火事、煙草、現実世界の飛行機、とか。
夢の中の飛行機と、煙草の煙と、それ以外のモチーフでは、明らかに描写の細かさが違うね。
現実の煙はひたすらリアルだけれど、夢の中の飛行機とかの煙はデフォルメ。煙草の煙はその中間あたり。
二郎の意識が反映されておりました。
煙草(吸うとその場は気持ちええが、健康には悪い)は二郎の「美しさ」偏屈、そして日本の戦争への道筋の暗示でもあるね。

あと個人的に感心したのは、二郎が本庄と夜のドイツの街を歩くシーン。
若干高みのある位置から、歩く二人の後姿を映す場面で、二人の歩を進めるタイミングがぴったり同じなのに
踏み出す足がお互い逆だったところ。
どちらかというと本庄は(夢を持っているところは二郎と同じだけれども)、日本の技術がドイツに20年遅れているだとか、
ある種の対抗心(というか外部環境との比較?)みたいなものに突き動かされてた人だけれども、
他方二郎は単純に自分の中の「美しさ」に誠実(外部環境は関係ない)。
二人の対照性が現れたシーンだった。

あとは接吻やな。これが決定的に従来のジブリ作品とは違う。
ファンタジックではない、極めて色艶・肌触りのある現実的な描写だった。色んな意味で大人の映画が撮影された。

帽子はどうか?機能してたね。それは「風立ちぬ」場面の可視化、頭を支配する理性からの解放(感情的側面への衝動?)。

まだわからないのは、なぜ二郎は牛が好きだったか。
一緒に見に行った友人は「アキレスと亀の比喩に出てきた亀と性質が似ているから」と言っていた。
ちょっとなるほどな、と思ったけど、たぶん足りない。直感的にそう思う。
これはもう一度考えてみよう。