予感の手触り

感想の掃き溜め

荒木経惟「今年」

今年から平間さんのモノクロ写真ワークショップに参加していて、自分を憑依させた写真を撮るべく邁進中なんだけど、そのような写真をとるにあたって先人の作品のインプットが決定的に欠けているので、ここ最近は近所の美術館内の図書館(無料)で写真集をしこしこ見る休日だ。
良い意味でも悪い意味でも心にふわりと抑揚が出てきたときは感想をノートに書きなぐっているのだけど、アーカイブ性を重視してここに転記する(気が向けば追記、気が向けばね)。
では1つめ。


荒木経惟 「今年」

妻の死。他の女性でまぎらわそうとするも、寂しさは消えず空、雲の写真が多い。
雲は天に昇った妻の象徴。電線で再度手に取ろうとするが、それは失敗する。
空に露出を合わせてる(気持ちが向かっている)ので、電柱など(現実のもの)は黒潰れしてしまう。



■浅田政志 「浅田家」

浅田家

浅田家

危ない。泣きそうになった。やはり家族の絆的モチーフは、自分が持っていなくて、欲しいと思っているモノなので、現実に存在していることを見せられると希望か?希望を持っていいのか?しかし無理では?という考えが浮かんできてしまう。
一回家族写真撮るしかないのか…。
自分は親に愛されていない自意識、だから小さな子供、自由に生きていた頃に戻りたいという気持ちで、子供の写真が多いのか。よくわからない。
ただ、こんなキレイな写真は所詮虚構だろうという疑いはある。


■石内 都 「1・9・4・7」

自分と同じ40歳の女性の手・足を撮るシリーズ。対象が手・足に限定されているのは、末端だから、とのこと。
その意味はたぶん、世界と触れ合う頻度が最も多い、つまり、外界と一番関係を築いた身体部位、ということだと思う。
見ていて、視覚は触覚だということを(また)思った。
皺ひとつひとつが眼を通して手に感じられた。
なぜか、知らない人の肌に触れているようで、気持ち悪いと思った。
やはり僕は、自分の心を許した人しか関係を持ちたくない。
それは臆病ということだろう。


■伊島薫「Black and White photographs]

Kaoru Ijima―Black and White Photographs (EDGE TO EDGE)

Kaoru Ijima―Black and White Photographs (EDGE TO EDGE)

ファッション写真。しかし顔のみの写真が多い。全体にフレアが生じたようにボケ、ピントは顔のみに合っているため、顔以外の部分は背景のように存在が薄くなる。
顔さえあればヒトに見える。逆に、顔が隠されるとモノとなる。
また中性的なモデルが多く、性別も(顔からだけだと)よくわからない。
では何が撮りたいのか?よくわからんがGenderとかそういうものを剥ぎ取った時の美?そうすると形?なのでモノクロなのか…。


■伊島薫「Color photographs」

Kaoru Ijima―Color Photographs (EDGE TO EDGE)

Kaoru Ijima―Color Photographs (EDGE TO EDGE)

ファッション写真は「こう撮りたい」という作為を隠さないのであまり好きではない、ということを再認識した。
慎ましくない。(でも確かにキレイな写真はキレイだし、格好いいものは格好いい。)
それは私が、自分にはそうなれないと気づきたくないからか?


今森光彦里山の道」

里山の道

里山の道

しょうもない写真集。こういう風景写真で「キレイでしょ?」みたいな写真は大嫌いだ。自然の美しさを、さも自分の力量のように見せる生き方がださい。
あとやたら解説つけて、言葉で武装するもの、写真だけだと勝負できないみたいで、嫌いだ。
ただ、もやのかかった森とか、そういう風景自体は好き。それは(過去の)山で目覚めたときの光景なのか、吹雪の時の視界なのかはよくわからないけれども。


石川直樹「国東半島」

国東半島

国東半島

写真を撮るのはあくまで手段であって、目的ではない。
まずもって自分が何を思うか、考えるかが先に来て、それを表現するツールとして写真が使われるに過ぎない。
石川さんは世俗の暮らし・文化とか、人間の営みが混ざるポイントが好きで、それを表現するものとして写真を用いることがよくわかる。
なので、身に着けるべきは写真の技術ではなく、自分の捉え方だと改めて思う。


■井上佐由紀「Screen」

Screen

Screen

この人は、今ここ以外のどこかに行きたい、自分と寄り添ってくれる第三者が欲しい人だ。
水面、光と影、二つ並びのpotがそれを現している。
でも、そういうセンチメント、気分はとても子供っぽくはないか?ヒッピーではないけれど、世界はgive and take、まずは外界を愛し、受け入れよ(→お前もな)。


尾仲浩二

尾仲浩二の写真は全般的に嫌悪感を抱く。その理由はおそらく、引きの写真が多いことから推察すると、旅で回った土地どちの個性を見ようとするポーズは見せつつも、その実、なんだか空虚な自分の心にしか関心がないような印象を与えるからだ。
旅先のさびれた食堂で酒を飲むショットも、酩酊状態になることで現実を見なくてよくなる、またその土地の人と関わった気になっている、という錯覚を感じさせる。
巻末のコメントも、自分の卑小さを自覚しつつも、それで良しとする甘さが透けて見えるようで浅ましい。
しかしそれは、自分が自分に対して持つ認識をと重なって、だからこそ尾仲の写真が嫌いなような気がする。
俺ってこんなつまらん写真撮ってるのか…と思って結構へこんだ。