予感の手触り

感想の掃き溜め

サイ・トゥオンブリーの写真 変奏のリリシズム

諸事情あってもっと気合い入れて写真に向き合おうという気持ちになっているので、観てきた展示や制作メモをここにまとめて行こう。

今回は@DIC美術館の掲題展示


サイ・トゥオンブリーのことは申し訳ないけど全く存じ上げなくて、事前に調べてもいかなかったのだけど、展示の一部に作品があったので助かった。
単純な印象で言えば幼児の落書きみたいな作品だ
サイ・トゥオンブリー 作品


この展示では彼の撮影した50点くらいの写真が取り上げられているが、大まかに分けると
 (1) 日常を取り巻くものをクロースアップで撮ったもの
 (2) 自然をストレートに撮ったもの
 (3) (1)と(2)の中間?

(1)は、例えばパン、レタス、ズッキーニ、ぬいぐるみ、椅子、扉、柱、筆、布、彫刻、テーブルの脚、自分の作品を対象とする。クロースアップ具合は、いわゆるよくある「日常で見てるものがよく見ると「そういう形してるのね!」」というところまで寄るのではなく、そのモノだということが認識できるレベル(ブロースフェルトまで寄らない)
カール・ブロースフェルト

ブレ・オフピンの写真が目立つ。ただし対象はそれとわかるレベルで。

(2)は、森、林、雲、砂場+日よけ傘を、特にひねりなくそのまま写したもの

(3)は、分類がちょっと難しいんだけど、とりあえず上二つの中間かな?たとえばアトリエ(彼にとってなじみのある場所)を映した写真なんかは、基本的にはストレートに撮ってるんだけど、細い柱みたいなものを前ボケで入れ込んでいたりするし、部屋(彼の部屋かはわかないのでなじみのある空間かは不明)は手前にドア、壁も含めて映している。

(1)クロースアップによって日常の中に新たなイメージを見つける、そういう新鮮な視点で世界を見つめることは幼児の落書き的な作品と共通するものがある。それでも視点が寄り過ぎないのは日常のものとの距離感がまだ近い(日常から大きく離れていない)ということだろう。シュールレアリスム的表現は、日常と全く異なった別世界を見せるものが多いが、彼の写真はそこまで現実から足を離していない。
ブレ・オフピンを使っているものの、対象が同定できるレベルというのも同じ価値観に基づくものと思われる。

(2)の自然を割とストレートに撮影している写真、そして幼児の落書き的な作品を考え併せると、彼は自然状態への憧れを持っていたのかもしれない。しかしながら(1)日常の様々なものもある種モノとして自然にそこに存在しているのに、それをストレートに撮らなかったのはなぜなんだろうね?

(3)部屋の中を撮影した写真に顕著なのは、その部屋だけでなく他の空間との繋がりを意識させるような撮り方だ。上に書いた、壁やドアを入れたり、布・カーテン越しの部屋だったり、「こちら」と「あちら」が区別されている、でもつながっていることを意識させる撮り方ですね。でも「あちら」は全く手の届かない場所としてではなく、ドアやカーテンをくぐれば、するりと簡単に移動できるような印象を受ける。「あちら」と「こちら」は分断されているのではなく、地続きの世界として映されている。

彼はよりピュアなままの世界に行きたかったんだけど、日常生活では目を凝らして凝らして、ある程度意識しないとそっちに行けなかったのかもね。そしてそっちの世界に比較的行きやすかったのが作品制作であり、馴染の深いアトリエだったりしたんだろう。

(3)で映されている対象は部屋なんだけど、それが彼の家であったり、馴染の深い空間だったりするともっとわかりやすいんだけどね。実際はどうかわからんね。