予感の手触り

感想の掃き溜め

写真のこと②:写真をはじめたときのこと

仕事のストレスが強くて心が弱っている。
一時期より大分楽になったがまだまだ辛く、さらに年明けくらいまではその状況が続きそうなので先行きが暗い。

人間性を失っている状態なので昔書いたものを振り返って健全な魂を回復しようとしていたところ、
別媒体で写真を本格的に始めた時くらいに書いた文章がまだ自分の気持ちとリンクしていることに気づき、少しだけ人間性を取り戻したので記録に残しておく。
前の「写真のこと①」では、次は人間と動物の関係について書こうと思っていると書いたけど、結構しんどい作業なのでそれは先延ばしすることにする。


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以下の文章は、部署異動で東京に来て1年くらい経った時に、本格的に写真を始めようと思ってワークショップに約1年通った成果を写真展で披露する前に書いていたものだ。

この1年間やってきたワークショップ(WS)の集大成たる展示が、遂に2週間後に迫ってきた。生活すべてを写真に捧げたわけではなかったけれども、自分としては当初目標としていた①フィルムカメラ・モノクロ現像の基礎技術習得、②(今までの論理一辺倒ではなくて)感情を落とし込んだ写真を撮る、というハードルはある程度達成できたと思うので、一先ず次のステージには行けたかな、という心境だ。



特に②については今回の展示のテーマ・コンセプトにも密接に関わるところなので、展示前に一回まとめておきたいけれども、夜も更けてきたし良い子は寝る時間なので(面倒なので)後でやるとして、今回のWSに参加して、写真を撮る気概について失望することが結構あったことを書き置いておく(ほぼすべて愚痴です)。

まず、WSに参加することを決めたとき、 非常にふわっとしていて今思い返すとマジでアホだとは思うが、 広く一般にいう「表現」への憧れがあって(裏返して言うと何も創造的な行いをしていない自分への劣等感があって)、何等か「芸術」のカテゴリに属するコミュニティには日々自己表現を達成しようと考えている人がいて、彼ら彼女らと交流することで私も自分の感情・存在を具現化できると信仰していて、一番手っ取り早い写真を選んだ(物理的にシャッター押すだけだし)。

後々書く不満に接続するように、事前の願望をより詳細に書くと、WSの人たちは、写真というテリトリーの中で、既存の写真が技術・コンセプトetcの点においてどこまで到達していて(文脈という意味での写真の価値)、または撮影者と世界との関わりをどうやってプリントという物理的存在に具現化できるか(主観的な、写真そのものの強度という意味での価値)、ということを真面目に考えていると思っていた。



でもそういう風に考えて写真をやっている人はほぼ皆無だった。大多数の人がアサヒカメラ的ないわゆる「上手い」写真を撮ることに拘泥して、やれ構図やら、やれラティテュードやら、専ら技術的な話題に終始していて、その先にある「なぜその写真は価値を持つのか」ということを話す人は数人しかいない。

もちろん写真をやる上で技術はものすごく重要なことは承知している。撮影・現像・額装・展示すべてに亘って、最低限身に着けるべき技術は存在するし、それができていない写真は、そもそも誰も見る気は起きない。

しかし、彼ら彼女らは技術という形式の先にある実質を見据えていない。いくら整った構図でイメージを構築しようが、いくらゾーンシステム活用してファインプリントを焼こうが、あなたにとってその写真を価値づけられなければ意味はない(という立場を私は採用している)。技術はあくまで実質をより良く伝えるための手段に過ぎない。アンセルアダムスは単にファインプリントを焼き続けたオッサンではない。

逆に言えば、あなたの思うその写真の価値が鑑賞者に伝われば、どれだけ構図が乱れていても、プリントが汚くても形式としての要請はそれで必要十分だとすら思う。形式は実質に隷属する(後述するが、実は形式を推し進める、または実質を抜き取るというメソッドで写真に取り組む人もいるので、この考えもあくまで一つの立場にすぎないけれども)。

結局そういう人たちは、先人が作った技術というわかりやすい、そして踏襲しやすい(「教科書」的な書籍はしょうもないことに一杯あるしね)既存レールに乗って、リスクを負わずに脳を弛緩させて道楽を楽しんでいるのに過ぎないのだと思う。キリスト教徒におけるパリサイ派。校内テストだけ点数が良くて校外の試験では得点できない表面的優等生。社会におけるマニュアル主義。今ある規則の趣旨・存在理由を考えずにオペレーションだけを行う人たち。既存のルールへどれだけ適合するかは、センス(この言葉は嫌いであまり使いたくないけど…)がなくても、深く思考しなくても、時間を費やせばある程度大きい顔をすることができるから安心なのだ。

そういう人が、少なくとも写真の領域では結構いることがこの1年で嫌というほどよくわかった。絵画では形式主義ってあまり聞かないのに、なぜ写真だけがこうも多いのか。構図が整っているからその写真は価値を持つのだろうか。じゃあセットアップ写真でかっちりやれば?ファインプリントが、ファインであることのみをもって価値を持つのか、じゃあグレースケールは価値を持つ?

極論を言ってもしょうがないけれども、お作法に固執する人が、特に写真のアマチュアには多すぎる。ある程度名のある写真関係者には何人かしか会っていないけれども、皆形式的なことを主眼としたコメントはないのは、撮影者にとっての写真の価値が重要だと考えていることが理由だと私は思っている(事実、彼らのコメントは後者を主に確認するものだった)。

果たして形式は実質に紐付けられたものとして機能しているのか。その点のみを批判しよう(ただし形式の最低品質をクリアしていることが大前提だけども)。そしてまず何よりも自分自身の信じる価値を明確化し執行しよう。



※絵画でもそうだけど、写真における抽象主義は形式主義を推し進めた一流派と理解している。けれども(面白いんだけど)その先には、ディティールを描いた純粋なイメージとしの写真を見る際の、人間の認識作用への興味があるような気がしている。ウタ・バースの写真は、見る人自身の脳回路を露にするポートレートだ。

怒っているな。

このWSに関連して記憶が蘇ってきた。
WSは私が参加した代は3代目で、それ以降にも数世代は続いていたと思う。
1年はWSに参加したのでそれなりに関係もでき、後の世代の写真展にも参加する位の社交性はあった。
ただ、1つ後の世代の写真展に参加していたとき、その世代で展示していた方(フィルムカメラのメーカーの方だった)と
私は展示の時にどのように考えて写真を撮って展示を構成していたか話すことになった。
概ね上記引用部分の認識から変わっていなかったので(形式主義や知識主義に固執する人への不満は伏せながら)「結局は自分の認識を写真に落とし込まないと意味がない」というような趣旨のことを話していた。
ただ、その人の反応は「そんなことするとワークショップに参加した意味ないですよね笑」というものだった。

思い出してまた怒っている。

結局その人にとっては、私が過去書いた分でいう冒頭の①の目的しか意識してなかったのだろう。
だから、彼女にとっては「自分の認識を写真に落とすこと」が①を無視することになるという論だったのだと思われる。

視野が狭い。あるいは、写真を消費しているだけで、なぜ写真を撮るかの切迫感がない。
1段抽象化すると、生きる意味をそこまで深く考えていない。

上でも書いているように、写真のみならず何かするときには基本動作というものが存在する。
ただそれはあくまでも基礎であり、その後自分の適性や目的に応じて基本動作の修正や決別が必要になってくる。
なぜならば各人の適性や目的は千差万別で、基本動作の背景にある精神と相反することもあるからだ。

例えば実際にWSの最中に私が言われたことは、「画面が眠い」ということであった。
「眠い」という形容詞は写真、あるいは映像に特有のものな気がするが、「ピントなどがぼやけていてコントラストも薄い」というような意味である。
逆に言うと、写真の基本動作としては、ピントがちゃんと合っていて、相応にコントラストのある画面を目指しなさい、ということである。

ただ、当時の私はそのような鮮明さを評価基準とする写真には魅力を感じていなかった。
勿論、基本動作なので鮮明な写真を撮る技術は身に着けていたつもりだ。当時は35mmではなく6x6のフィルムカメラを使っており、性能としては十分すぎるほどに鮮明な写真をおさめることができるし、実際にそのような写真を撮っていた期間もあった。
しかし、その時の私の関心は(今も一部続いているが)「人間の想像力はどのようなときに発揮されるのか。また各人の想像力はそれぞれ異なる方向性を持っているが、それは何に由来するのか」ということ、それを考える前提として「まずは自分の想像力の方向性はどちらを向いているのか、またそれは何に由来しているのか」を展示のテーマにしようと考えていた。
結果として、絵作りとしては見る人の想像力を働かせる余地を感じさせる、また「記憶」に思いを馳せる装置として、靄がかかったような映りを志向していた。

単に基本動作に従うことを盲目的に信じる人にとっては、このような「眠い」写真は良くない、ということになるが、彼らはなぜ私がそのような「眠い」絵作りをしているかを「想像」する力を持たない。



WSに参加した以後も写真を撮り続けているが、その目的は変わっておらず自分の認識をいかに写真に落とし込むかということにある。
その過程でいろいろな人と写真について話すことになるが、どうしても乗り越えられない認識の断絶がある。
私は、今後50年くらい続く人生の中で捨て去り切れない自我の乗りこなし方を知りたい。そして、同じように悩む人がそれぞれ持つ乗りこなし方を理解してみたい。
他方、そのような悩みを持たない人達もいる。それは聖人のように、既に自我を乗りこなしている人も勿論いるが、大部分はそこまで考えていないのではないかと思う。
雑な議論だが、そのような人は誰かが作った作品を単なる消費対象としてしか見ていないように思われる。

今後の人生を単に暇つぶしに費やすほど世界はつまらなくない。
であれば私は悩みながら自分と世界との関わりについて考え続ける道を選びたい。その一つの手段が写真である。

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これは何に見えますか?
単に建物の間を通る道に、カーペットが敷かれている街角の風景でしょうか。
私自身は実際にこの光景に遭遇しているのでわかるだけなのかも知れないですが、建物の外壁や窓・ドア・看板の意匠から少なくとも日本ではないことはわかる。
日差しの強さや土っぽい外壁を考えると乾燥地帯の街並みなのかと思いを馳せることはできる。
先に言ってしまうと、この写真は出張でUAEアブダビに行った時に撮ったもので、カーペットは付近で働いているイスラム教徒が神に祈る時の場である。

ちゃんと写真を読めば適切に想像力を働かせることができる。
私はその想像力は人間が生きる時の特性の一つだと思う。
私は写真を撮ることでその特性の働き方、そしてその特性が稼働することに伴う自分と世界との関係の結び方を確認している。