予感の手触り

感想の掃き溜め

花束みたいな恋をした

(Filmarksに書いたものの移植)

hana-koi.jp

冒頭の再会シーンで解釈が方向づけられてしまっているのかもしれないが、これは失われたもの、失われつつあるものに関する映画だ。

冒頭からてんこ盛りのカルチュア~要素、またビール飲みながら長時間徒歩で帰るみたいな、いかにもな要素にちょっと身構えてしまったが、それは互いの感覚、というか互い個人そのものを交換したい、一体化したい麦と絹の精神の一要素であって、彼らにとってそれが今村夏子等々であっただけで、観客である我々は我々自身の片割れとなる(カルチュア~ではなく)文化を代入すればよい。

自分の好きなものを突き詰めるという性質によって引き寄せられた麦と絹であった。それはかなり美しい光景であって私自身も大学時代のロマンスになりきらない異性との思い出も(僅かな経験ながら)想起したりした。
鎌倉のシーンの冒頭、途中まで彩度が上げられた絵作りは実態以上に膨れ上がった当時の気分の高まりも想起せられた。その後麦がしらす丼を買いに消えてしまったことでその彩度高めのシーンも解除され現実に引き戻されてしまったが、それが麦と絹の未来とパラレルになってしまっていた。

結局は、冒頭のシーン通りに二人は別れを迎えてしまったわけで、その理由はどのように考えれば良いだろうか。映画に描かれた事情だけを見てみると、私自身は麦の気持ちも絹の気持ちもそれぞれわかる。
麦は、他ならぬ絹に「私山根君の絵好きだよ」と言われたことも影響してか、激安単価でイラストカットの請負をするも、大好きな絹との生活を維持するために就職、激務によって豊かな精神性を棄損されて単調な人間になってしまう(就職後の彼はもう「電車に揺られて」というような表現は使うまい)。絹と一緒に暮らす生活は本来多様であるべきではあるものの、ザ・「社会人」として型に嵌められざるを得なかった彼は「結婚」を起点とした「幸せな家庭」という幻想そのものを絹に押し付けてしまう。これらは全て生活の困窮から始まっているが、絹との生活を思うが故に「社会人」としての成功を目指してしまうという葛藤が麦の胸にはあった。
絹は絹で、大学時代から引き続き好きなものを消費する生活を続けている。律儀に簿記2級を取得して医院(歯医者?)の事務員になったのも定時上がりできるからだろう。だが「好きなことを仕事にする」ことの憧れ(これは憧れだったと思う)が捨てきれずいかにも怪しげなオダギリジョー社長の会社に飛び込んでしまう。やっていることはチケットのもぎりやライブハウスの清掃とかあまりクリエイティブには見えない仕事だった(もしかしたら画面外でやってるかもしれないが)。彼女は、学生時代にはあったが今は失われてしまった麦の精神性を想う。他方、(薄給に苦しみながらもイラストレーターとして作品を作っていた麦と異なり)絹自身は何かを生み出している描写はなかった。
このように見てみると、一見二人の別れの主因は外部環境、すなわち好きなものをそのまま好きとして生活できない経済構造にあるようにも見えるけれども、私はそうではなくて、作り手としての麦と、消費者としての絹の経験や精神の向き先が違ったことが本質的なのではないかと思うに至った。
麦は好きなことを仕事にしようとしたが挫折した苦い経験を持っているし、資本主義に取り込まれ「〇〇に目をかけられてるしCMの受注できれば金が入る」と創造性の欠片もない写真家の先輩の死も直接的に経験している。一方で絹は、自分の作ったものが社会に認められない経験をしておらず、あくまで一消費者として文化を嗜む(それ自体を否定しているわけではない。私もそうだから。)。彼女は、作りたいものが作れずにやむを得ず就職するという挫折を経験していないため、麦の精神性が失われたことに素朴に不満を抱いていった。しかし彼女自身は、イベント会社に転職したものの、結局謎解き自体は他の会社が作ったものだし、ライブハウスでは自分ではない誰かの演奏を聴いているのみである。
麦と絹は、それぞれ何かの原料にはなるが、麦はそのまま食材として利用できるものの、絹は紡がれていないとそれ単体では利用できない。
なお、麦がより経済条件の良い職についていたら、というような経済条件の改善によって二人の関係の改善を期待する気持ちもわかるにはわかるが、結局それは、薄給に苦しむ麦の苦しみを、画面に見えない第三者に転嫁する選択肢にすぎないのではなかろうか。それは結局、麦の会社でトラックを海に捨てたあの男性のような人の屍の上に、自分の「幸せな生活」を積み上げることにほかならないのではないかと思えてしまう。

クリエイターとしての挫折を経験するも(したからこそ?)「普通」に「幸せな家庭」の型に囚われてしまった麦と、あくまで一消費者であったから軽やかに文化を渡り歩けた絹、それぞれの気持ちがよくわかるのでこの映画を観ても結論としてどちらの生活が良いとは言い切れないところにこの映画の良さがある。冒頭でも触れたが、この映画の文化的要素はあくまでも麦と絹との共通項を点描しているだけであって、観客としてのわたしあなたの物語では適宜必要に応じて自分の文化的要素を代入して良い。そうするとこの映画は万人にとっての映画となる。

別れを決意しても尚、また別れてから再会しても尚、二人の考えることはほぼ同じで発言を交互にカット割りしても一人の人間のコメントとして成立してしまう程に思考が似通っている二人の共通性を描くシーンがにくい。そこまで同じである二人の生活も本質が異なっていればいとも簡単に瓦解してしまうのであった。(これは、二人の共通点が些末だということを意味しないだろう)

結婚式の後、別れ話をしていたジョナサンで、正に学生時代深夜まで話をしていた席で新たな恋が生成されている場面に接した麦と絹の思い、そしてこれから恋仲に発展するかもしれない若い男女のこれからを想像して泣いた。そこには重層的な時間があったが上手くいかなかった自分たち、うまくいきつつあるあの子たち、その後上手くいかないかもしれないあの子たち、そして、自分たちと違って「数%の例外」として成功するかもしれないあの子たちといった複数のシナリオが空間に漂っていたシュレディンガー的なシーンに泣いた。

個人的にカラオケシーンが良い映画は良いというジンクスがあるのだが本作も良かったですね(2つとも)。別れ間際に「一回くらいは浮気したでしょ?」と聞きつつ自分は答えない絹の真実に思いを馳せた。