予感の手触り

感想の掃き溜め

パレード

eiga.com

公開当時に観てたところ、Paraviで配信しているのを発見し再見。

作中でも手を変え品を変え言及されるように、本当の自分、本当のあなた、本当のあの人はどのような人格かをどのように考えますか、と問う。
実存主義構造主義との間で死ぬ程議論がされているが、本作の登場人物でいえば、「マルチバースって知ってるか?」「真実なんて人それぞれ」「みんなが思う〇〇なんて存在しない」と諭す直樹自身が、最後に自分の凶行が露見したことで嗚咽する(「本当の自分」と「他の人から見た自分」との落差、およびそれに起因したコミュニティに属し続けられるかという不安によるものと思われる)のに対し、他の同居人は直樹に悩みを相談したり解決してもらったりしつつも、直樹の嗚咽には何ら関心がないという転倒の関係を見られるラストシーンは結構気持ちの良いものであった。
比喩的には、冒頭のシーンから部屋の中の柱がカットの中心にどしんと据えられ、同じリビングで会話する良介と琴美を明確に分断する。部屋の他のシーンでも登場人物は頻繁に柱によって分断される。他者の心なんて完全に理解することはできないということが視覚的にも表現される。
途中でサトルが「それって上辺だけの関係ってことね」と琴美に言うが、琴美はちょっとイラっとした表情をしながらもそれをやんわりと否定する。ウェットな構造主義だったり、ドライな実存主義が成り立つことは5人の関係の中でちゃんと描かれている。
「流石に犯罪はダメでは?」と疑問を持つ人もあるかもしれないが、それはあくまで映画の中の話であって、例えば「知り合いの彼女と浮気する」「都合のいい女に堕落して堕胎する」「夜な夜な趣味の悪い映像を見て心を落ち着かせている」「風俗で働いてたり不法侵入をしてたりする」というレベルであれば判断が異なってくることもある。直樹以外の登場人物をどこまで許容できるかを考えるのが本作の主眼だろう。

初見は大学生の時だったので「必要な範囲内で自分を開示し、自分の役割を全うする関係性で十分なのであればよくね?」と割と肯定的に評価していたが、今もって見てみると基本的に肯定的な評価は変わらないものの「やっぱり他のみんなはシェアルームしか出るしかないよね」と思う。「『本当』の自分」を選択的に呈示するひと時の関係性は、部屋を賃貸するように永久には維持できないように思われる。結婚したり子供ができたりすると自分の切り売りでは対処しきれないために、シェアルームのような関係性から卒業する必要があるだろう。

ラストシーンは様々解釈あると思うが、あのシェアルームでは各人が各人なりに役割を全うしようとしていたし、他の住民にもある程度の役割を果たすことを期待していた。各人が自らの役割を果たしている限りは、あのコミュニティは廻っていたが、皆の悩みを適切に解決してきたお兄ちゃん的な直樹が嗚咽することは彼の役割期待とは著しく異なっており、ラストシーンでは直樹だけが皆の共同幻想に与していなかった。
皆が自分の楽器を奏でて自分のパートを踊って「パレード」は賑やかに進んでいたのに、直樹だけがぽつんと外れてしまったことで他の住民は白けてしまった。
ウェットな構造主義的な関係性の中では(人によるけれども)シリアスな傷を全て呈示できるわけではなく、自分だけで引き受けなければならないことのみはやや評価が変わったポイントかな。