予感の手触り

感想の掃き溜め

写真のこと①:ポートレート

写真を撮り続けている。
料理や映画・読書と並んで私の重要な一部を構成しているのだが、2014-2015年の1年間に写真家の平間至さんのワークショップに参加した以来、腰を据えて写真について考えることがなかった。
コロナ下で時間を持て余していることが直接の理由でもないのだが、今後死ぬまでの約50年間でずっと変わらない大事なものを結晶化しておくべきだろうという思いが沸き上がってきたので、
最近は映画の感想をつらつら書くことでその重要なものの衛星軌道上をくるりと廻っていって段々と中心に接近していければと、その引力に期待していた。
書いてみると、映画の感想を超えて、自分の価値観が徐々に明確化・構造化されたような感触を得たので(世界認識の解像度を高めるために映画を見ている面もあるので当然なのだが・・・)、
写真でも同じようにできるのでは、映画とは別の側面から中心に迫れるのではと思った。
写真に関することのうち、まずはポートレートについて書いてみたい。


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ポートレートは苦手だ。
ここで言うポートレートは人物を被写体とするものを指している。
従って、「ポートレートが苦手」というのは「人物を写真に撮ることが苦手」という意味になる。
「苦手」というのは、単に技術的に拙いので自分の想像通りに撮れないということも勿論含意するのだが、
それよりも、ある人物の写真を撮ることに心理的抵抗がある、という感覚の方が強い。
何故抵抗感があるのか。それを探るには、まず「写真を撮ること」をどのように捉えているのかを考える必要がある。


1.写真を撮ること

写真を撮ることは、被写体に纏わりつくものを含めて、被写体全体を自分の所有物として窃盗する行為である、と考えている。
これはポートレートだけに限らないが、一旦フィルム、またはデータを媒介として写真に収められた対象物は、見るものによって度々繰り返し見返され、見るものの好きなように利用される。
それはグラビアのようなある種扇情的な形態だけにとどまらず、風景写真(一般的にフォトジェニックとみなされるものだけではなく、日常の街角のようなものも含む)は例えば自然主義や郷愁の念を掻き立てるものとして鑑賞されうるし、ペット写真はかわうぃうぃ~みたいな感情を喚起するのに役立つ。仲間との集合写真は楽しい(とは限らないが何らかの)思い出を回顧する良い機会になるし、自撮りであってもあの時あの場所の私に思いを馳せる契機となるだろう。
(ファッション写真や物撮りは購買意欲や流行への一体感への切迫感を持たせることに利用されるが、私はそのような写真を撮ることはないので、かっこに納めて脇に置くこととする。)

利用のされ方はあくまで例示であるが、写真は鑑賞者にとって何等かの感情のスイッチとなることを期待されているように思う。
そして、そのスイッチを提供する意味では、撮影者は鑑賞者の共犯者である。

そのようにある種利己的に動員され得る写真を撮ること、その暴力性・恣意性を自覚していると、
本来それそのものとして価値を持っている被写体自身を、自分のために利用しようとする撮影という行為は、被写体の価値を盗用しているように感じられてしまう。

あまり論理的ではないかもしれないが、少なくとも私自身の感触、手触りとして、写真を撮ることは、暴力的かつ恣意的な行為として認識される。



2.人物を撮ること

このような写真観(というか、写真"撮影"観と言うべきかもしれない)に基づくと、人物を対象とするという意味でのポートレートは、人物以外を被写体とする他の写真のジャンルに比べて、
本来自由であるべき他者の人格を私有化してしまうという意味で、最も繊細な配慮が必要となるものと思われる。
このポートレートに対する感覚は、私の人間関係に対する感覚と比例している。
人格ある他者は手段として消費することはできず、目的としてその存在を認めなければならない。そして、他者の存在を認めるに当たっては相応の時間を要する。
これは私から他者、他者から私の両方向に妥当する双務的関係である。

翻って、他者を撮影する行為について考えると、例え相手が自分にとって大事な存在であっても、自分の主観のみを以てその他者を撮影することは、上記の文脈で他者を私物化する行為と認識せられる。
それは、自分が他者の心の内に踏み入ることに似ている。
私が他者を撮影するとき、他者が私による写真撮影を許容してくれるかどうか私は気にするし、写真を撮るに当たって他者が写真映りを気にすること(例えば、写真用の顔を不器用に作ることなど)は相手の配慮を要してしまう点で、
その配慮を受け入れてくれる関係性を構築している必要があると考える。

こうなると迂闊にポートレートは撮れない。


3.動物を撮ること

ここでポートレートの概念を一段階拡張してみる。
上記でみた通り、私にとって写真は対象物との関係構築に密接に紐づいている。
だとすると、ポートレートの被写体は人物に限定する必要はない。
ただ、いきなり対象を広げ過ぎると、自分にとってのポートレートの概念を見誤ってしまうので、徐々に概念を広げていこうと思う。

なぜか動物の写真は撮るのに抵抗感がない。これは関係構築でも同様で、人間よりも動物と関係を結ぶことの方が抵抗感が弱い。
その理由は、動物を手段として捉えている(例えば癒しのツールとして動物を撮るとか)わけではなく、単に打算や利己的な思惑が対人間より感じにくいというだけである。
もっとも、動物も餌が貰えたり遊んで貰えたり、といった打算もあるにはあるが、人間には価値評価軸が動物より多いので、複雑さが人間には劣る分、動物の方がイノセントな印象を持っている。
子供も同様だ。私は大人より子供と仲良くなる方が早いし気楽。


ここで少し話を変えると、コンラート・ローレンツというおっさんが結構好きだ。
彼は動物行動学者だ。高校で生物を履修した方は、ハイイロガンに懐かれた、水面から顔を出す彼の画像を見たことがあるだろう。
コンラート・ローレンツ - Wikipedia

彼の著作「ソロモンの指輪」は、私の好きな本の一冊として十数年君臨している。
ソロモンの指環―動物行動学入門 (ハヤカワ文庫NF) | コンラート ローレンツ, Lorenz, Konrad, 敏隆, 日高 |本 | 通販 | Amazon

巷の動物関連本は、動物に人間を憑依させているものが多いように感じる。
私はその立場には与したくない。
動物は彼ら独自の行動原理を持っていて、それは人間の言葉に翻訳されずとも、当然ながらそれ自体独立して成立している。
現代においては、人間と動物との関わりは大部分が飼い主ーペットの関係であろうが、それが両者の関係の本来的な在り方とは言えない。
ペット以外にも、肥育対象として動物が位置づけられる恩恵を受けている人も多いため、家畜としての動物を想起する人もいるだろう。
だが、それも本来的な動物の在り方ではない。

「ソロモンの指輪」の良いところは、ローレンツ博士が動物を人間と独立した存在として捉え、その認識を前提に、彼らをつぶさに観察し、彼らの行動原理を理解しようと努める姿勢にこそある。
(とりわけ私が好きなのはコクマルガラスの章で、ローレンツ博士がコクマルガラスの「愛」の対象となって、口や耳の穴に給餌される描写はかなり笑える。)

実際のところ、それは人間でも同じではないかと私は思う。
なまじ同じ言語を使うだけに表面的な共感を演出することは容易である。
しかし、本当の意味で相手の心を理解することは果たして可能であろうか。
私は無理だと思う。
無理だけれども、大事な存在に対しては、可能な限り相手を理解しようと策を講じる。
そもそも相手を100%理解することができるという安易な理想論は捨てつつ、100%は理解できないけれども出来るだけ相手を理解することができるように努力すること、
その前提として相手を独立した個人として尊重すること、それが私の人間関係に対する認識である。

この認識を、写真を通して再確認することを私は求めているような気がする。
動物を含む二人称「あなた」を独立した存在としてみること、そのように動物のポートレートを撮ることを志向している。


町田康のインスタを見ると、彼も同じような視点に立っているのではないかと思う。

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違うと思う。

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俺は、

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すいません。アイルランドラーメンやってますか?

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町田康は私の好きな作家の一人であることが影響している部分もあるだろう。
「猫にかまけて」「スピンク日記」以降のシリーズを読めばわかるように、動物との関係の結び方は、まんま私が上記書いていることそのものである。
従って私の他者関係論は町田康にその原型を作ってもらっている、いや、町田康によってその輪郭を描き出してもらったところが大きい。
(彼の「告白」は「ソロモンの指輪」と並んで私の好きな本の一冊なので、いつかその良さについて書きたい。)
告白 (中公文庫) | 町田 康 |本 | 通販 | Amazon

だが、それを差し引いても尚、町田康の撮る猫の写真は(上記のインスタのポストは陰影が深めで人間のポートレート然とした佇まいに寄ってはいるが)、
猫の人格(?)そのものを捉えているように感じられる。


私も、動物をそのように眺めている。
私も、動物とそのように関係を結ぼうとしている。
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4.ポートレートを撮ること

ポートレートの概念を更に拡張してみる。
心あるものから心ないものをポートレートの被写体概念に取り込む。
物体と自分との間の関係性を構築する仕方を、写真を撮ることによって考える。
物体が物体として特有の在り方に則って存在すること、それを私が認めることを写真を撮ることによって確認していく。
写真は私の知覚・投企の手段として位置づけられている。
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この流木は佇まいがかなり格好良いと思って撮った。
ただ、物体に対する姿勢は動物に対する姿勢とは毛色が異なる。
それは次回以降、写真のことを考えるタイミングで深掘りしてみよう。
観察、想像、好奇心がキーワードになる予感がある。


現時点で私が気兼ねなく写真に収められる人間は祖父母だけだ。
彼らは私を受け入れているように感じられる。私は彼らを受け入れている。
祖父母以外の他者を私の心に立ち入らせることができるか。
差し当たりは動物や物体を潜り戸にして、人物を被写体とすることをへの接近と離脱を繰り返しながら、広義のポートレートを撮ることでその境界を触っていきたい。
世界との接触は触覚を起点に始まると私は思う。

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写真について書いたけれども、つまるところそれは自分の価値観とか思考枠組みそのものなのであった。
写真シリーズにするかはわからないけれども、なぜ私が他者との関係を考える上で一旦動物を経由しているのか、
人間と動物をどのような関係に位置付けているかを、次回もっと細かく考えてみよう。