予感の手触り

感想の掃き溜め

きみの鳥はうたえる

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2018の夏に好きになって劇場で2回見て、その後発売されたBlu-rayを3-4回見ている。

「お嬢ちゃん」の記事で先に書いてしまったが、本作は2018年最高の映画だと思っている。その後記事の下書きまで書いて結局公開しないままずるずると2020年も半分を過ぎてしまったのだが...。

なかなかこの作品について語る機会を失ってしまっていたが、最近Amazon Primeで本作が公開され、さらに少し前に星野源さんのPV監督を三宅さんが務めたということで、これを逃すと暫く記事を仕上げる機会はないと直感、こうして完成させるに至ったわけである(といっても、まだ書き始めなのでここからの自分を信じての発言です)。

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知り合いにはひたすら勧めているのだけれど、「めちゃめちゃええよ!」と語彙力ゼロの紹介しかできていなかったので、今まで先延ばしにしていたええところの言語化をしてみます。

世間一般のこの映画の評価は「若者3人(しかも男2人、女1人という)の青春劇」というのが大勢だろう(雑なまとめで申し訳ないが、Filmarksを見るとこういうことを書いている人がそれはもう沢山いる。あとは「エモい」とか)。

ただそんな映画は日本だけで見ても63億作はあるだろうから、その言葉だけでこの映画を評価してしまうのは網目が粗すぎる。

 

この映画のひとつの特徴は、他の人たちの会話を聞く一人の登場人物に注目するカットが多いことだ。通常の映画の撮り方であれば(特に青春劇のような人間関係の移ろいを主題に据えるものであれば)、その場面に登場する複数人を俯瞰できるように、1カットには複数人の人物を映り込ませてその人たち個別の反応を見せるのが多く採用される手法と思われる。

他方、この映画は、冒頭の静雄と母親の居酒屋のシーンから、最後の僕が佐知子に気持ちを伝えるシーンまで、一貫して一人の登場人物のカットにこだわっているように見える。

 

ここで一旦話を自分の領域に引き戻すと、今年の夏に入りかけたくらいから、無意味にも思える仕事に専念せざるを得ず、休日も食っちゃねの繰り返しで、(今まではそんなことなかったのだけれど)この生活がずっと続くような気がして何もやる気が起きなくなった。

入口としては仕事が忙しくなったので他のことに力を割けなくなった(料理と写真は切り替えスイッチとして強力だったが使えなくなった)ことが原因で、毎日が何の変化もない単調なものに感じられてソフトな絶望を感じていたことが作用しているように思われた。

世界は日々変わっていっているのに、それを感じられない不感症への危惧が原因だった。世界ではいろんなことが起こっており、常時状態変化をして移ろっていくのに、自分の精神的なフィルターが原因でその変化を見逃してしまう。世界の豊かな変化を感じられない自分自身の不具合が認識せられて更に絶望が深まるといった具合だった。

 

この映画で頻発する登場人物の密着カットは、この世界では作用/反作用の流れが力強く、長く続いていることを改めて認識させてくれる。

冒頭の静雄と母親のシーンは静雄の右後ろからの視点のカットで構成されているが、目配せやまばたきの頻度・回数、顔の筋肉の弛緩・硬直や声色、間etcといったものから静雄の人となりや母親との関係性、場としての居酒屋の属性等、多くの情報が読み取れる(足は映っていないが、静雄が貧乏ゆすりをしていることは母親の指摘が入る前に、見る人も気づくことができる)。

またカメラの視線も、対面にいる母親からの目線とはまた異なる角度で挿入されている。静雄の目線の先にカメラはなく、見る人は、静雄と母親を結ぶ直線から、50cmくらい離れた地点から静雄を眺めている。満員電車で親子二人組の後ろに陣取ってしまったかの距離感で映画を見ることになるが、なんだか二人の関係を直接邪魔はしないまでも(二人の目線の直線上にはいないので)、そのプライベートスペースに闖入して秘密を垣間見てしまったような感覚を覚える。

そこでは視覚・聴覚その他を通じて色々な情報のやり取りがなされ、登場人物はその情報の一つ一つから自分のリアクション(反応を示さないことを含む)を決めて実行する。その過程が、この映画で特徴的なカットを元に立ち上がってくる。

当然のことだが本来私が生活している日々も、そのような情報に溢れているので私もそれに反応しなければならない環境なのだが、それを受け取る精神的余裕がないので日に日に彩りを失っていくばかりであったが、この映画を見ると本来的なコミュニケーションには当然のことながら数多くの情報が含まれており、見る人が見ればそれを手掛かりにして深く心を通わせる(それは良いことも悪いことも両方だが)ことができるということがわかる。

 

話は若干脱線するが、本作でも他の作品でも「何も起こらない」だとか「日常をそのまま切り取っている」だとかの評価が付されることがある。それは大体上記のような繊細なコミュニケーションを汲み取ることのできない人たちからの評価だと思われる(勿論、演者や監督らの力量が不足しており作品自体の情報量が少ないということもあろうが)。その原因には、上記の通りそもそも感覚器が鈍っているからという要因があるだろうが、もっと深く見てみると、物語、又は共感主体の評価基準に毒されているという事情もあるのではないかと思われる。

物語主体の評価基準というのは、国内外含め話題作に食いつく人たちが持っている価値観を指している。今般のコロナ禍で映画業界全体の低採算性、ビジネスとしての厳しさが浮き彫りになっているが、それを乗り越えるためにはできる限り多くの観衆を引き付けられる仕掛けが必要である。その一つが、観衆が興奮・熱狂・嫌悪等するような物語の導入である。

ハリウッドも神話を参考にシナリオ構築しているようだし、皆さん大好きな村上春樹も神話的な展開が特徴的だし、ジブリなんかはもろに神話ですね。

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そのような映画に慣れ切った人たちからすると、商業映画(といっても本作も商業映画なのだが、もっと大量動員を意識しているような作品という意味)が備えているような起伏のあるストーリーを求めるようにある種の調教が施されているので、その閾値に達しない小物語はカタルシスに足りないのでしょう。

 

二つ目の評価基準として提示した共感基準というのも、ここから派生するものと思われる。多くの観衆は映画の効果にカタルシスを求める。カタルシスを得るためには当然のことながら登場人物に共感する必要がある。映画製作者側からすると、観客を物語に引き込む一つの効果としてカタルシスを発揮しようとすると、観客が共感できる登場人物を仕込むこととなる。

ここで重要なのは、共感というのは(それ自体悪いものとして否定しているわけではないが)あくまで観客を引き込む導線の一種でしかないということだ。裏返すと、共感のできない映画は直ちに駄作となるわけではない。

 

にも拘わらず、映画の感想を色々見てみると、結構な映画「通」(往々にして単に数をこなしているだけだったり、知識だけが入っているだけだったりするのだが)の方々であっても物語・共感偏重の評価基準を持っていたりする。

ここは人によって違うし、違って勿論良いと思うのだが、映画の存在意義はエンターテインメントだけではない。映画を通して、人間とは、世界とは、を知ることも可能であり、私はそのように視野を広げてくれる映画がとても好きだ。そのような映画には物語がなかったりするし、登場人物にも感情移入できないことがあるが、人間や世界をきちんと描き出しているのであれば私は評価したい。人間や世界は私の認識の範疇に全てが存在しているわけではない。

 

映画の評価基準から更に話を派生させると、その裏には世界の構造をどのように認識しているかの違いがあるように思われる。

物語・共感基準で評価するということは、そこに価値のヒエラルキーを作ることだ。ある程度のエンターテインメントの要求水準を満たさないものは切り捨てられる。そこに世界の相似形としての映画は無く、単に「私を楽しませられるか」という観点からの映画があり、そして消費される。そこにあるのは評価者としての「わたし」くらいである。

私はそのような世界認識には与しない。世界には自分からは認知できない多数の人がいて、それぞれの生を生きている。そこには本質的に価値の軽重はなく、不幸にも通説としての力を持つ資本主義によって無理矢理ピラミッドに押し込められているに過ぎない。生そのものを認めることは、何も起こらないようでいて、実は沢山のことが起き続ける日常を、そのものとして受け止めながら生きることであろうと思う。加えて言うと、私は、映画を見るときには自分の認識を変化・更新・緻密化させてくれることを期待しているので、上記認識を深めてくれるような映画に出会えた時は素直に良い映画と評価する。

* ヒエラルキーに関しては、役者レベルでも同様の話ができる。スペクタクル・カタルシスを含む物語に演者の身体が動員されることは、往々にして過剰な振る舞い・表情・台詞回しを誘導してしまう。それは日常生活のコミュニケーションのあり方とは乖離してしまい、一部の観客には違和感を生じさせてしまう(これは完全に私見なのだが、若年女性の評価が高いように思われる今泉監督の映画は私にとっては仰々しく感じて胸焼けがする。多数の人には「リアル」と評価されているようだが、本当にそうなのだろうか。私が若年層のコミュニケーションの「リアル」を知らないだけかもしれないが・・・)。これに対して、演技の「リアルさ」、すなわち日常生活と同じような身体性を重視する立場は、生そのものを肯定する(と私自身思っている。なお映画上の「リアルさ」は勿論虚構ではあるが、真のリアルさに限りなく近似させようとする姿勢そのもののことを言っている)。

 

話を元に戻すと、この映画は決して物語や共感を理由に評価する作品ではない*1し、そのような基準でしか映画を評価できないのであれば、それは狭量な価値観であろう(と他の記事でも書いた気がするが)。

この映画で注目すべきは登場人物、特に主役の僕、静雄、佐知子がどのようなやり取りを細かに行い、各々の関係性をどのように変化させていくかということだ。 これを追えない鑑賞者からすると、本作は「何も起きない」「雰囲気だけ」「登場人物クズばかり」「若者が遊んでいるのを見せられている」というような評価になってしまう(いずれもAmazon PrimeやFilmarksでのコメントをざっくりまとめたものです。これらはマイナス評価の文脈で用いられるケースが多かったが、逆にプラス評価としてこの語彙を使っているものも、よく考えていないという点でマイナス評価と変わらないと思う)。

 

例えば、冒頭に記載した静雄と母親のやり取りの後には、一人の人物にカメラがフォーカスする場面を中心に、主に以下のようなやり取りがなされている。

ハンバーガー店で僕と佐知子がお昼を一緒にしてバイト先の書店に戻った後、二人はSMSでのやり取りをしている。前日夜のセリフからすると佐知子は僕の連絡先を知らなかったはずである。したがって、ハンバーガー店で連絡先の交換をしていたことがわかる。また僕のスマホには大きな亀裂が入っている。これは僕の人物像(スマホを裸で使うくらいには、またひび割れが実用的に問題ないのであれば放置する程には無頓着)をより精緻に描き出すことに一役買っている。この時のシーンでは、ユーモラスなメッセージの交換から自然に溢れる笑み、しかし仕事中なので真面目に振舞わなければいけずその笑みを抑え込む二人の表情がそれぞれのカットで描かれる。

僕と佐知子がセックスする直前、佐知子の髪についていた虫を逃がす僕の行動に佐知子は驚いた様子を見せる。ハンバーガー屋で彼女が「やっぱり誠実じゃないんだね」とコメントしたように、佐知子は僕に対して良くない印象を持っており、だからこそ「めんどくさくない関係」を期待していたのだろう。そのような僕が意外にも虫を逃がすという優しい行いをすることに佐知子は驚いていた。*2

佐知子と静雄が初対面のシーンでは各人が短いカットでつながれる。静雄と佐知子の入れ替わり。笑い話を交えて話す静雄に驚く僕が観察される。この表情から静雄は普段そのようなユーモアを表に出すこと(あるいは、更に進んで他者に好意を表すこと)は珍しいことだと推察される。

この時のやり取りで、佐知子は、僕に虫を逃がす行動を起こさせた静雄の人格に触れ、その優しさを目の当たりにしている。

コンビニに入ってすぐ自分のことしか考えず本を読む、ウイスキー買う僕。ここから既に僕が他者の関心が薄いことが推察される。他方、静雄はトイレットペーパー、炭酸水(「切れてた」という表現から常備品、少なくともよく買う品なのであろう)を買う気配りを見せる。佐知子の、色々な品物を籠に入れていく静雄を気にする目線を観客は見る。ここで静雄と佐知子の気の使い方が同じベクトルであることを感じることができる。

佐知子は帰る時、ゴミを片付けようとする気遣いを見せる。彼女は静雄をちらっと見る。酔ってかつ寝ぼけている静雄に映画に誘われる佐知子。この時既に佐知子は静雄のことを好きになっているのではないかと思う。その証拠に帰り道に静雄のものと判明したTシャツの匂いを嗅いでいる。これは単に男物の匂いを感じる以上の意味があるように思われる。「一緒に映画見に行こうよ」と言う静雄に対する、一瞬「えっ?」という僕。その後笑うが、帰り道に自分から佐知子にキスしにいったり、「静雄は飲んだらいっつもああなの?」と佐知子から聞いて答えない僕の複雑な心情を推察することができる。僕としては、この時点では佐知子は単なるセフレであろう。他方、佐知子は、口では「めんどくさい関係は嫌いなの」というが、後の店長との別れるくだりのリアクションを考えると、本来的には「めんどうな関係」のコミュニケーションを志向しているように思われる(「めんどうな関係」になってしまったのは結果論だろう)。

その後、僕と静雄と佐知子の関係は三者一体となっている。(恐らくラウンドワンであろう)ビリヤード場・卓球場に三人で行っている。ここでの静雄と佐知子の関係は僕を媒介としたものに留まっている。その後のクラブのシーンでは、静雄と佐知子の二人のシーンが初めて挿入されており、関係深化が描かれている。レビューを見るとこのクラブのシーンが好きな人が多いようだが、それはクラブの空気感、すなわち大音量の音楽やダンスにより個々人の被膜が薄くなって他者との距離(物理的なものも心理的なものも)が段々となくなっていき、一体化されるような感覚を捉えてのものであろう。(なお、ここでの佐知子のダンスは一地方都市の一般女子のレベルを超えていて、ここもちょっと浮いた印象があるが、「佐知子」としてではなく石橋静河としての身体性が感じられる。これはこの映画を私が高評価する理由とリンクしているが、詳細は後述する)

朝焼けの中電車で帰宅するシーンの後、僕と佐知子のセックス後のシーンに移る。着替え後、佐知子は僕の上に乗りながら

「(静雄は)帰ってこないね」

「あいつなりに気使ってんだろ」

「・・・それって優しすぎない?」

「お互いに干渉しないんだよ。相手のしたいことは邪魔しない」

「なんで?」

「ん?・・・友達だから」

「・・・・・・あなたの人生に静雄がいて良かったね」

「ん、そうね」

「・・・・・・わたしたちは友達?(僕の方を見る)」

「ん~~~↑(キスしようとして誤魔化すも佐知子は避ける)」

というやり取りがある。僕からすると佐知子はちょっと仲いいセフレでしかないので最後の質問には答えられない。佐知子が僕に向けた「あなたの人生に静雄がいて良かったね」という発言は、尊重しあえる存在がいて良かったね、という趣旨だろう。ここで佐知子は「めんどうな関係」を本来的に求めているので、その対象に自分が含まれているか確認したくて、少し逡巡しながらも(セフレ的要素も認めつつ、どこか「友達」として扱われることを期待している狭間にあって)「わたしたちは友達?」と僕に投げかける。ここにも僕と佐知子の認識の違いを認めることができる。だからキス避けられんだよ。僕と佐知子の温度差は、後の公園付近で店長と話しを付けようとする佐知子に対する僕の適当な発言で露になる。それが、結果佐知子と静雄の接近につながってしまう。

書店のシーンで森口が万引き犯の追跡に参加しなかった僕を責める。「やっぱお前って誠実じゃないんだな」という発言と、前半のハンバーガー店で佐知子が僕に放った「やっぱ誠実じゃないんだね」というセリフが繋がる。ここで森口が職場で僕のネガティブキャンペーンを展開していることが明確にわかる(まあ、前半で同じく、ヘラヘラ笑いながら店長に「あいつクビにしたほうがいいっすよ」と言っているシーンで既にわかっているのだが...このリンクはより強い口調で森口が陰口を叩いていることが推察される)

店長が僕に「佐知子を幸せにしてやってくれ」と言う。ここで佐知子が嘘(とまではいかないが本心からの発言ではないだろう)を言っていることがわかる。既に僕と佐知子の心境の温度差は明らかになっており、佐知子は僕との関係が安定的でないと知っていたはずだ。それは勿論、セフレとしての関係ではなく恋人としての関係という意味で。にもかかわらず、店長の発言から推察するに、佐知子は僕を彼氏として説明していることがわかる。まあ店長への説明の都合上、彼氏とした方が通りが良いのはその通りであるが、そもそも佐知子が店長との「めんどうな関係」を清算しようという心持ちになったのは、僕との関係に期待していたのが契機でもあるだろう。

佐知子は喫茶店アメスピを吸いながら本を読んでいる。僕には真相を話さない佐知子は、静雄を誘った。初めての二人っきりの時間があった。静雄は、初対面の時に佐知子に貸したあのTシャツを着ている。佐知子があの時Tシャツを着て帰って、恐らく丁寧に洗濯をして静雄に返したラリーがあったとここで想像できる。Tシャツを介して、佐知子と静雄の心のやり取りがあったことが示唆されている。

カラオケシーン冒頭で、静雄に母親から着信がある。佐知子は「いい加減出てあげれば」と言っていることからすると、静雄と母親との関係に何等か潤滑でない部分があること、その不具合のある関係性をある程度継続的に佐知子が認識していることがわかる。(のちに静雄と付き合うことになる佐知子は、この母親との関係が良くないことも含めて静雄を受け入れることになる。)

カラオケ後に深夜帰宅する静雄と佐知子の二人。翌朝、佐知子は僕が狸寝入りしていたと指摘するが、僕は「嫉妬したかどうか聞きたいの?」と斜に構えてしまう(結果、それが僕が嫉妬していたことを間接的に示してしまう)。加えて店長がどのように言っていたか、「」を質す佐知子。「別に何にも」と答える僕に対して「何で何も言わないの・・・?」と困惑する佐知子。静雄がシャワーを浴び終わるまで物思いにふける佐知子。ここで静雄の半裸が初めて公開される。佐知子の視線から、何となく静雄のことは現時点で男として見ていないような印象を受ける。何も気にせず歯磨きを続ける静雄に対し、ふと笑みを浮かべる佐知子の真意は正直わからないが、全く気にしていない静雄の素朴さに思わず笑ってしまったという面もあるだろう。

森口の醜悪さについて。もともと職場でいない人の陰口を流布する彼は、万引き犯の追跡に参加しなかった僕を店長にチクる。店長に呼ばれた僕がこっぴどく叱られたと勘違いして、勝手に謝って仲直りを迫る森口。店長からの叱責がネチネチしているという森口は、誰に対しても文句を言う精神性が透けて見える。また相手の思いを斟酌せず一方的に仲直りを宣言する振る舞いで、自己中心的な心理構造も見て取れる。加えて、一旦仲直りしたと宣言した相手に対しては、また「俺らが必死に働いているのに楽しいことしてる奴はクズ」「あ、お前もさっちゃんのこと好きだったのか?(笑)」と他者の心を全く尊重しない幼稚さを見せる。それが僕を激昂させて「お前何にもわかってないな」と言わしめてしまう。こういう人は結構現実社会にも多いのではなかろうか。私も調子に乗ったら森口みたいなことをしてしまいそうではあるし、逆に「森口みたいなことしたことない」という人は、かなりしっかりしている人か、或いは自分のことを客観視できない人だろう。表向きの仲良さを重視しがちな典型的日本人に多いのだが、自分のことを「気遣いができる良い人」と思っている人は自分が森口的側面を持っていることを自覚できないだろう。

僕もやり過ぎたところはあると思うが、報復措置として木材殴打をする森口。手に持っているのは細長い円柱型の棒である。ここでエッジの立った木刀を持ってこないことに森口の脆弱な精神が現れている。ひたすら叩くのも脇腹あたりだし。こいつに頭を狙う度胸はない。

キャンプから戻ってきた佐知子が部屋でネイルを塗りながら着ている服は、職質を受けている静雄が着ていたものだ。なぜこの服を着ているのか。それは部屋でシャワーを浴びて、かつ着替えがなかったからだろう。着替えがなかったのはキャンプで全て着てしまったという推測は立つ。他方、なぜシャワーを浴びたかはいくつかの考えが成り立つ。一つはキャンプからの帰宅(途中で静雄と佐知子はどこか寄っていたかもしれない)で汗をかいたから。もう一つは二人がセックスをしたから。どちらのシナリオかは判断つかないものの、後のシーンでわかるとおり(そしてその前に三人のシーンで予感されるように)静雄と佐知子は恋人として付き合っており、二人の仲が親密になっていることが服で暗示されている。

その後三人で遊びに繰り出すシーンでは、静雄が今までのシーンで全く感じさせなかった怖さを醸し出す。それは母親が危篤になった切迫感によるところもあるだろう。「パッと死ねた方が楽」「こうやって遊んでた罰が当たった」「わかってないよ佐知子は」「(飲みに誘ったのは)お前だろ」「母さん、誰が誰だかわかんないと思うよ」。静雄に一瞥をくれる僕のカットは、静雄の異変に気付いていることを表すシーンだろう。映画では描かれなかったが、静雄は母親を殺すことになる。それは勿論、映画冒頭で母親が「(障碍者になりそうだったら)いっそのこと殺してくれ」「まあ静雄にはできないだろうけどね」と言ったのと呼応している。三人で飲んだこの時点で静雄は母親を殺す決意をしていたことだろう。なので佐知子の「戻ってきたら三人でまた飲もうよ」という発言には何も答えていない。これは小説を読んでいなくてもわかることだ。翌日、静雄が起床したとき、僕は既に物憂げな表情を浮かべていた。彼は静雄の決意を知っていたかもしれない。静雄に自分のシャツを貸したのは、静雄が戻ってきてくれることをどこかで期待していた心境の現れのように思われる。

その後、点描的に、バイト先の男女、店長と森口の、本当に普通の人間としてのやり取りが挿入される。

 

上記で長々と書いたものの、本作の、観衆も経験しているような普通の生活のシーンの羅列は、そもそもとても多くの情報と文脈を含んでいる。それは我々の生活も同様に多くの情報・文脈を含んでいることをも示している。

冒頭の話に戻るが、本作は、多くの人が重視しがちな物語・共感基準には与しない。そうではなく、普通の人々の普通の生活を、生をそのまま肯定する姿勢をとっている。それを「つまらない」とか言ってしまうのであれば、生あるいは他者にかなり無頓着なのではないか。 森口のように職場で嫌な奴の陰口を叩いたり(浅い社会経験しかないが森口のような人は本当に多いと感じる)、バイト先の女性のように、彼氏がいるのにバイト先の後輩男性と明け方まで飲んでしまったりする人は多いのではないかと思うし、極端には店長や佐知子のように職場の狭い関係性で不貞行為を働いてしまったりする人も一部にはいるのだろう。

普通の生活もそれそのものとして映画として昇華しうる。というか、映画はそもそも人間の文化的行為の一つでしかないのであって、前提として普通のひとびとの普通の生活が世界を構成している。そのような認識によって本作は形作られていると私は解釈した。

 

上記の例で傍論として、クラブのシーンにおける佐知子のダンスと石橋静河の身体性が、この映画の高評価の理由とリンクしていると書いた。

この映画を私が高評価している理由は、私たちの生そのものを肯定する姿勢にある、とも書いた。これが役者レベルで発揮されるのが、あのクラブでのダンスであった。何かの雑誌で柄本佑染谷将太が語っていたような記憶があるのだが、あのクラブのシーンは特に台本がなく、とりあえず演者も監督もカメラマン含むスタッフも、クラブで楽しみつつ撮影をしていたと話している記憶がある。従ってあのクラブのシーンは自然発生的である。それは佐知子のダンスも同様だ。そこに台本上の「佐知子」はおらず、クラブにて楽しくなって自然に踊りだしてしまった石橋静河がいた(なお石橋静河はもとコンテンポラリーダンサーである)。

上記でも触れた通り、私はこの佐知子のダンスを、この映画にしては違和感あるものとして捉えた。そこに特段の意図がなければ異物混入としてあまり高く評価はしないのだが、本作の高評価の理由として「生そのものを肯定する姿勢」が、佐知子としてではなく石橋静河として図らずも立ち現れてしまったあのダンスシーンを挿入することにも表れているようにも思われる。ここでは佐知子と石橋静河が重なり合ってスクリーンに存在しているし、その存在を許されている。

 

最後に、僕と佐知子のラストシーンに関して。

僕は佐知子に対して、ところどころで静雄に対する嫉妬を見せながらも、基本的には都合のいい関係を演じてきた。それは僕の弱さでもあっただろう。佐知子は、最初こそ「めんどうな関係は嫌」と言いつつ、店長との関係の反省を生かして「めんどうな関係」であっても相手との関係を構築しようと努めてきたように思われる。その佐知子のアクションに対し、特段真面目に取り合わずセフレ(ないしはセックスもする仲いい女友達)としてのスタンスを僕は崩してこなかった。他方、僕に嫉妬心が生まれていることからも、本心は、佐知子は単なるセフレではないことがうかがわれる。僕はその気持ちに向き合ってこなかった。

それは、静雄を見送った後、喫茶店で静雄と恋人として付き合うことにした(「つきあうことになった」等、受動的な表現を使わない佐知子の心にも注目したい)という佐知子に対し、「俺は・・・・・・・・・二人がうまくいけばいいなと思ってたよ」と言うギリギリの段階でも継続している。翻ると、その日の朝の憂鬱な面持ちは佐知子との関係が終わることをも予見しているとも思われる。喫茶店からの帰り道でも、「静雄を通してもっと新しく佐知子を感じることができるかもしれない。すると、率直に僕は気持ちのよい空気のような男になれそうな気がした」という独白においても、その建前を崩さない。佐知子と別れる最後の最後まで「今色々考えてたんだけどやっぱり、佐知子が静雄と出会えて良かった」ときれいごとを言っている。

それに対して佐知子はさみしいような、振り切れたような表情をして、冒頭のシーンのように僕の肘をつねる。僕がちゃんと向き合ってくれるのであれば、静雄の位置には僕がいることを彼女は期待していたのだろう。

僕が初めて佐知子に対する自分の気持ちに正直になったのは、最後のシーンだけである。佐知子と別れた後の僕によるカウント、これは冒頭のカウントよりも明らかに遅い。同じ13秒カウントで比較すると、冒頭のシーンでは0:04:43-0:04:55までのほぼ同程度の時間でカウントが終わっているのに対し、最後のシーンでは1:39:44-1:40:08と29秒もの時間を使って13秒カウントが行われている。できるだけ長い時間佐知子のアクションを待ちたい僕の気持ちが表れているが、待てども佐知子はアクションを仕掛けてこない現実に思い至ってか、僕自ら走って佐知子を追いかける積極性を初めて見せる。まあ時既に遅しなのだが(と僕は解釈した)。

僕から本心を打ち明けられた時の石橋静河の演技は素晴らしい。本来は僕との恋人としての関係を期待していた気持ち、その後のやり取りで都合のいい関係しか求められていなかった失望感、相手と向き合ってくれる静雄に心惹かれて結果恋人として選んだ時の覚悟、一時的かどうかはわからないが心を開いた僕に対する期待と不安。僕と改めて付き合うことを考えた自分への軽蔑、静雄への申し訳なさ、でも静雄を好きな気持ちも本心である。そのような感情が一度に表現されていた。これは並大抵の役者にはできない演技だ。このシーンだけで本作を見る価値がある。

 

 

 毎度長文すみません。私も疲れてしまったので一旦ここで打ち止めにしたいと思います。

ですが、「きみの鳥はうたえる」は間違いなく2018年の傑作のひとつですし、三宅監督は今後も活躍を続ける映画監督の一人になるでしょう。三宅監督の作品はワイルドツアーくらいしか見れてませんので、過去作もぜひどこかで劇場上映、DVD化、配信をご検討ください。必ず見ます。

また出版社の方々も(特にユリイカを編集されている青土社様)三宅監督特集を組むことを期待しております。

宜しくお願いいたします。

 

 

 

*1:念のため書き加えておくと、本文でも書いた通り本作にも物語はあるし、登場人物への共感も十分しうる。ただし、それはメジャー作品のようなスペクタクルではないし、万人が共感できる感情でもない。ここで言いたいのは、たとえそれがスペクタクルではなくてもきちんと画面を観察すれば物語を抽出することが十分可能であり、日常でも様々なことが生起しているために、そのような「小さい」構成要素だけであっても映画として成立するということだ。

*2:セックス後の僕と佐知子がキッチン横で「さっきの友達?」「気づいてたの?」というシーン、柄本佑の演技はちょっとシリアスすぎて浮いている感じがする