予感の手触り

感想の掃き溜め

ディアドクター

eiga.com

本物と偽物、嘘と本当の境界線・分水嶺の話。
まずは本作の土俵の中で話を進めると、①免許の有無(「医者」としての外形的基準)、②緊急対応のスキル(緊急時の「医者」としての定性的基準)、③他者の欲望を満たす意思・スキル(通常時の「医者」としての定性的基準)によって象限を分け、自分はどれを満たせば「本物」の「医者」と考えるだろうかと思考を巡らす。
看護師の大竹は①医師免許はないので気胸に苦しむ村民の胸に針を刺せないものの、②緊急医療の現場にいたことから病状を的確に見抜き、③平時にも村民からの信頼は厚い。
研修医の相馬は①医師免許を持っており、②緊急対応をする知識は持っているはずである(本作では明確に描かれないものの、冒頭、おじいさんが喉に食べ物を詰まらせた際に気管への挿管を行おうとするシーンがあり、伊野は主導権を相馬に握られている。ただ、伊野による背部圧迫により解決できる症状というのが憎らしい設定ではある)。③また伊野と「本物」の「医者」について話したシーンの通り、相馬は患者に感謝されることが医者の本分であると考えるが、まだ研修初期のため村民と心から打ち解けるには至っていないのではないか。
最後に伊野は、①医師免許は持っておらず、②緊急対応のスキルはないものの、③村民の希望を汲み取り、それに寄り添う意思の強さは他の二人と比べるべくもない。③について、伊野の特殊さを認識しておくために具体的な場面に触れてみると、冒頭おじいさんが喉つまりで一瞬呼吸が止まった際、特に回復を願わない親族の気持ちを察しつつ(恐らく介護負担の一番大きい奥さんがエプロンを握る手を想起する)、偶然を装って喉つまりを解消する。鳥飼さんの腹部を診察した際には異変に気付きつつも村民の前で異常を明らかにすることはせず、検診用のライトをわざと隠して忘れるという周到さを見せて、鳥飼さんとの会話の機会を作る。
上記をまとめると、以下のようになる。
看護師: ①× ②〇 ③〇
研修医: ①〇 ②〇 ③×
伊野:  ①× ②× ③〇
(0/1の議論ではないが)上を見ると一番条件を満たさない伊野が、村民から最も信頼されている状況に伊野の特殊性が見て取れる。

描く職業として「医者」を用意すると、本作で提示されるシーンだけに依拠しても上記の通り①~③の基準が設定でき、本物と偽物の議論がしやすい。が、あくまでもそれは観客が理解しやすいように選ばれたモチーフ以上の意味を持たないだろう(例えば、弁護士を採用しても同様の議論はできると思われるが一般人からするといまいちわかりにくいために観客の思考を誘発できない)。

本物と偽物の境界線を分ける基準が多いことが「医者」を選んだ理由だとすると、本物と偽物の境界線という主題を「医者」以外に展開することも可能なはずである。それは例えば観客自身の職業でも良い。
その場合には①外形的な免許の有無は機能しないので除外し、②スキル・能力としての適性と③倫理としての適性について考えれば良いだろう。


話は変わるが、松重豊が演じた警察官が研修医に語った「あなたたちも伊野が医者のふりをする片棒を担いだわけだ」という台詞に注目したい。これは、本物と偽物の境界線は、その人と接する他者の判断によって揺蕩う曖昧さを持っていることを示している。
伊野は、①②は満たさなかったが、恐らく神和田村で最も強く求められた③の適性に極めて優れた人物だった。村人は、伊野の医者としての不自然さは感じていたものの、「話し相手になってほしい」「何となく安心させてほしい」と言った欲望を高水準で満たしてくれる伊野の存在を欲していたため、彼に「医者」というラベルを貼って彼の存在を正当化していたように見える。このメカニズムが上手く働くように監督は僻地を舞台に選んだように思う。鳥飼さんの娘が務める東京だと、よりスキル重視の判断になり、本物と偽物の境界線がより明確に引かれることになる。
このように見てみると、本作は、曖昧さに触れた時の人間の心の動きについての映画だということがわかる。

伊野を完全な悪者にしなかったのも、観客の判断を迷わすための装置だろう。例えば、伊野が、高額な報酬を目当てに医者を騙り、村人の診療も片手間でやっているような作品だったとしよう。その場合、恐らく多くの観客は容易に「伊野は偽物」という結論を下せるだろう。
でも本作はそうなってはいない。伊野の偽物としての葛藤が描かれているからだ。
伊野は明確に自身を偽物と言う。それは法律上、医師免許を持っていないということだが、他方、患者が思い病気にかかっていれば夜遅くまで勉強を怠らない真面目さを持つ(免許を持つ研修医は勉強中に居眠りしているのに)。伊野は患者の希望に沿うように対応したいという強い意図があるために、スキル・能力に不足があっても村人から「医者」であるように祭り上げられてしまう。気胸の事例のように、偶然も相俟って自身の能力以上に「医者」としての役割期待が肥大化する。その乖離が伊野の「偽物」という自己認識に拍車をかける。
鳥飼さんの娘が現れた時も、一応ただの胃潰瘍という説明はするものの、娘はその嘘を見破れず胃潰瘍が「本物」になってしまう。娘が次帰省するのは1年後であるという。ステージ5のがん患者が死を迎えるには十分な時間と思われる。伊野の「嘘」が「本物」になってしまったために、顔の皺の数まで知っている村民が死ぬ。
伊野はその重みに耐えきれず、逃げるしかなかった。

このような伊野の行動を、外野から「そのような身の丈を超えた嘘をつくべきでない」と一刀両断するのは可能である。同じことは昔話でも聞いている。でも今、この社会でそのように素直に生きていられる人はとても少ないのではないかと思う。観客は自分の心にいる伊野の様な人格と向き合わねばならない(例えば、同じチームの人がたまたまやった仕事を上司に褒められた時に、それを自分の仕事だと言ってしまう人もいるのではないか。同じような例は他にもあるが、想像力を使って是非考えてみてほしい。)
心の中の伊野に思いを馳せる誠実な人程、「本物」と「偽物」の淡いをどのように判断するか迷うことになるだろう。本作は上記のような伊野の人物描写を挿入することによって、更に境界線を曖昧にして観客の判断を迷わせる。
更に最後のシーンで、とても軽妙・軽薄そうに鳥飼さんの前に現れる伊野の姿を描くことで、伊野を肯定的に評価しようとした観客に更に揺さぶりをかける徹底ぶりが感じられる。

人間の存在は明確に白黒、0/1で区別できるものではなく濃度勾配やグラデーションによって把握されるべきものである(と、少なくとも私は思っている)。本作は、本来的に未定義な存在に触れた時に、どのように心を働かせるかを問うている。
因みに私は主観主義かつ機能主義的に考えるので、想定される場に応じて他者が望む役割を果たすのであれば「本物」と考えて良いのではないかと思う。悲しくもあるが結局人は自分の思うようにしか他者を理解できないように感じられるので、その限りで自分の役割を果たしておけば存在意義は満たされているのではないか。