予感の手触り

感想の掃き溜め

お嬢ちゃん

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2018年は「きみの鳥はうたえる」が最高の映画だったが、2019年は「お嬢ちゃん」だと思う。12/30の渋谷アップリンクを最後に、既に4回観ているくらいだ。

登場人物の演技が結構繊細で、毎回見るたびに表情だったり身振りだったりの表現力の深さに気づくので、複数回見ても飽きない映画でした。

以下ネタバレ(というより本編そのもの)を含むので頁を変えます。自分のために、かつ映画見ていることを前提に書いているので、かなり端折った表現になっている点はご了承下さい。

 

この映画は客観能力の高さにより生きづらさを抱えた人の物語と思う。

 

1.詰問と謝罪の同居

この映画をパッと観た感じ、恐らく多くの人はみのりの歯に着せぬ物言いの爽快感に目を向けるのだろう。まあそれはそうなのだが、その上げ幅があっての、親友の理恵子を含む親密な人に対してはストレートな物言いをした直後に(これが大事)「ごめんね」を言える客観性と素直さを持っているのがみのりの一番の魅力と私は思う。その感情の振れ幅をみのり自身は「めんどくさい」とか言ったりするが、その対象への接近と離脱、ヒットアンドアウェイの歩幅の広さにみのりの誠実さが表れている。

 

具体的には以下の場面が思い出される。

■対理恵子

・レイプ野郎3人組に啖呵切った後、「あたしは理恵子のさじ加減で生きなきゃならないの?」の後に「ごめん、言い過ぎた」「バドミントンしよう」

・合コン参加した永井さんのお店で「合コン参加すんの?理恵子話盛る癖あるじゃん。理恵子のこと信じられなくなるよ」の後、帰路で「理恵子のこと信じられなくなるは言い過ぎた」(理恵子も「わかってるよ」と答えるのがよい)

・(理恵子に対する詰問ではないが)公園で泣きながら世間のクソさを訴えた後、「理恵子今なんで泣き出したって思ったでしょ」と俯瞰

■対おばあちゃん

・「若い子が家の中でパンツ一丁になるものではない」「まだ若いんだから」とバイアス嵌め込んできたことに対し、「おじいちゃんはパンツ一丁だったじゃん」「若くしても死ぬことはある(→だから私が若くて先があるというロジックは成立しない)」と反論した後、「私めんどくさい女だね」「パンツ履いてきます」と素直に反省 

■対かなえおばちゃん

・息子のために自分がかつて作った研究発表を持ち帰る直前、「お父さんのことまだ追いかけるの?」「は?・・・だめだおばちゃんごめんなにそれムカついてきた、なに急に、私この家出ていけばいい?」とまくしたてるみのり

(感情的になっているが「ごめん」と挟み込むのがみのりなのだなあ)

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    (0:43~)

■対ストーカー男

・(付き合ってほしい、大事にするから、と告白されて)「ごめんなさい」、(「なんで俺と寝たの?」と聞かれ)「あの時セックスしたいからしたんじゃないの私たち」、(「ヤリマンだったのかよ」とボソリ言われ)「おいちょっと待て」「ヤリマンにヤリマンって言うな。ヤリマンじゃなくてもヤリマンって言うな」(「ヤリマンだからヤリマンって言ったんだろうが」)「ヤリマンじゃないってさっき言ったよね」「謝れクソ野郎」(「ヤリマンには謝れってい言うのにクソっていうのは良いのかよ」)(0.5秒くらい間があって)「すいませんでした、私は謝ったからお前も謝れ」

ヌルっと書いたけれども、「なぜストーカー男が親密な人として組み込まれているのか?全然本質を理解していない盲か?」と言う人があるかもしれないが、少し待ってほしい。思い出してみると、みのりは「あの時セックスしたいからしたんじゃないの私たち」と言っている。「私たち」と言っている。 

ここには単に性行為を共有した事実としての「私たち」以上のニュアンスがあるように思われる。

また、みのりはこの時「ヤリマン」という罵倒語に敏感に反応する。ストーカー男がいうヤリマンの意味とは、彼自身「誰とでも寝る女」と言っている。これは単に遊戯として性交をする人のことを指しているのだろう(すなわちリエゾンは誰であろうが問わない)。

他方、みのりはこれに対して自分は「ヤリマン」ではないと反論している。心を許している人としかセックスをしないという趣旨の反論だろう。つまり、セックスをする時点でみのり的にはある程度このストーカー男を物理的にも精神的にも受け入れていたのだと推察される。*1

この性行為に対する精神的距離は、ストーカー男による「寝る」という即物的表現と、みのりによる「セックス」というほ~~~~お~んの少しだけ情緒的ニュアンスのある表現との断絶に表れているように思われる。

(もっと言うと、みのりは敢えて「セックス」という表現を用いることによって、性交という行為との距離を保とうとしているように感じられる。この揺り戻しが一周回って「セックス」の語を採用するみのりの心情、というか複雑性を匂わしている。)

 

 

若干横道に逸れたが、納得できない物事に対して辛辣な物言いをすることと、その後に謝罪や関係回復のアクションがとれること、それが同居している精神性にみのりの良さがある。

これはみのりがいつも自分のクソさ、矛盾に自覚的であることによるものであろう。

くだらない会話ばかりしている周りもクソだが、高い客観能力により自分もそんなクソと同じで日々を無為に生きているやるせなさを理解しているので、大衆に迎合しない、出来ない生きづらさを感じているのがみのりの置かれた状況だ。

 

ただ、みのりには一応最低限の社会的能力があるので、一部ひどいもの(冒頭のセクハラ男やストーカー男等)を除いては、他人のクソさにすぐ見切りをつけるわけではなく、距離を保つことで関係を維持している。親友である理恵子はもちろん、(おそらく私だったら即刻関係を断つと思うが)勤務先のカフェの常連であるさくらさん(ペドフィリア気取り女)の話も、自分の信念とは明確に異なるけれども、一応聞いてあげるくらいの社会性は持ち合わせている。(ただみのりは共感できないことには一言たりとも返答しない。)

 

(ここで既にかなり書くのがつらくなっている)

 

2.怒りの所在 

上記の通り、みのりは一応社会生活を送っているが、理恵子に対する大胸筋揉みしだき事件という強硬な侵害行為はもちろん、女の子らしさ、若さ、娘らしさといった固定観念の押し付けという緩い侵害行為を許せないという頑なさも併せ持っている。これを理解するにはみのりが怒りを表明する場面を想起するのが良いように思う。以下では明確にみのりが異論を唱えるわかりやすいシーンに加えて、無言の圧力をかけて暗示的に否定を表するシーンにも触れる。

■対レイプ未遂男

・(たとえ理恵子がほんのちょっと良いと思っていても)泥酔して女子トイレに押し入りキスをすることに対して、男たちを呼び出して抗議し蹴りをかます 

■対さくらさん

・(BBQで参加者の女性の体重を聞きまわるイケメンに対し)「私そのイケメンが許せないんですけど」(さくらさんから「私その女の頭をトングでかち割るから、みのりイケメンぶったたいて」と言われ)「・・・はい」

■対おばあちゃん

・(若い女の子はパンツ一丁で家歩き回らないという指摘に対し)「おじいちゃんはパンツ一丁でいた」(わたしがこんな風になったのもあいつ【注:みのりの父親のこと】のせいだからねと腐るみのりに「まだ若いんだから」と宥めるおばあちゃんに対し)「私も小さい頃背中の病気で死んでたかもしれない」脳に病原菌行って死んだ隣の男の子いて、「セックスの気持ちよさも知らずに」

■対さくらさん

・(ビュッフェ誘われた時に「ブスの私らがいるからあんたのきれいさが引き立つ」と言われた際)(無言)

■対永井さん

・(自分のお店で理恵子誘った後にみのり以外はブスしかいないと言いながらスマホをスクロールする彼女に対し)(無言)

・(永井さんが理恵子に対し「何も言わない理恵子も悪い」と言ったのに対し)(お前が言うなよという空気で無言)

これらに共通するのは、他者の尊厳を大なり小なり侵害している点にある。後者はバイアスの当て嵌めと言ってもよい。みのりは侵害行為の程度と関係性を勘案して、反論できる相手には反論するが、どうでもいい相手は放置する(みのりが他人のために起こるのは理恵子だけだが、これは二人の親密さに起因するものであり、その意味であの事件は理恵子へのセクハラというよりも、みのり自身に対しての侵害行為であった)。これは社会性ともいえるが、どちらかというと臆病さに起因していると思われる。

 

この映画を見る皆さんはこんな世の中を、この映画のモブらがやるような寸劇を演じることでやり過ごしているのだろう。冒頭の水着3人衆の「女性は女優」、レイプ未遂男3人組の「もう我慢できねえ」、神社3人組の「美人3千万」話・・・。世界の構成要素の割合としてはそんな寸劇が8-9割だろうし、その退屈さを勿論この映画は認識しているので、点描的にクソみたいなやり取りを挿入してみのりの立つ地平を構成している。 

(これはほぼ愚痴だけど、美人3千万円の寸劇をする神社3人衆のコントを面白いと言う人が多くいるように思うが、本当にそう思うか?)

ただ、 みのりだけはこの寸劇に直接的に参加しない。

さくらさん、萌ちゃんとバイト先にて、さくらさんが幼児性愛で逮捕された時を想定した寸劇をするシーンがある。萌ちゃんは、さくらさんの問いかけに対し普通に「そんなことする人じゃない」みたいなコメントをする。その流れでさくらさんはみのりに「あなたはどう思いますか?」と問いかける。話の流れから、自分に問いが飛んでくるのは想定できるものだろうが、みのりは「えっ?」と驚く。これはどういう意味だろうか。

そもそも自分に問いかけされると想定していなかった。まわりをきちんと見ているみのりに限ってこれはないだろう。(話の流れ関係なく)質問を投げかける程親密な関係ではないとみのりが思っていた可能性もゼロではないが、幼児性愛の話題も躊躇なく大声で話すさくらさんにその気遣いがあるとは思えないし、それはみのりもわかっているだろう。

したがって、やはりこのやりとりは現実を若干超越している象徴としての機能を持っているのではないかと思う。つまり、みのりはこの映画に散発する寸劇のようなコミュニケーション、もっと言うと各人の心の深いところに刺さるものがない表面的な交流には参加する気がない、ということを表しているのではないだろうか。

実際、さくらさんに答える際も、みのりは「性癖は人それぞれだと思う」「(容疑者の帰りを待ちますか?との問いに)待ちません」と、寸劇の登場人物としてではなく、みのりとして答えている。

(本論からずれるけど、さくらさんの「待たんのかい!」というつっこみに笑うみのりは良いよね。)*2

 

バイアスの当て嵌めの匂いが濃い日常の中で、パチンコの人だけはみのりにラベルを貼らない。みのりと何かしたいという欲があれば大数の法則の話はしないし、申し訳なさそうかつ恥ずかしそうに自分の職業をパチプロとも明かさない。

不動茶屋は恐らくルーツとしては和風お菓子を提供する喫茶店なのだと思う(茶屋というくらいだし)。そのお店が出す和風ラーメンは客を呼び込むために主食かつ看板メニューとして開発されたものだろう。それが奏功して多くの人はほぼ思考停止的に和風ラーメンを頼むが、パチンコの人だけは不動茶屋のルーツである白玉あんみつ抹茶アイスを頼む。そういう所にも彼が他の登場人物と異なることが示唆されている。

 

3.アイデンティティとしてのクソさ

他者に対しては一応の合理性を求めるみのりは、その合理性の延長で、機能的なもの、楽なものが好きだ。だからカバンはペラッペラの袋で良いし、ワンピースをよく着るし、風呂上がりにズボンを履かないしブラも着けない。

他方、みのりは合理性を持ちつつも、自分も辞めた方が良いというタバコをやめられない非合理性も持つ。そのようなマイルドなものに加えて、後半の公園で理恵子と語らうシーンでみのりの心境が描かれる。

理恵子から「みのりちゃんには幸せになってほしい」と言われ、みのりは日本に生まれただけで幸せ、バイトは週4日だし実家に3万しか納めていないし、公園で友達と語らえるし、たまにセックスして、クソして寝るだけで、これ以上の幸せがない、と言っている。

そして、「くだらなくない?・・・ほんとくだらねえ。いろいろどいつもこいつもほんとくだらない。・・・わたしも含めてね。」と続く。その後に、「理恵子、私が今頭狂ったと思ったでしょ」と加える。

これは、自分も含めて今周囲にいる人間は、現状そのままで幸せなのにも関わらず、あいつムカつく面白いかっこいいかわいいセックスしたいメシ食いたいetc.些末なことばかりに満足・不満を垂れ流しているのがくだらないが、そんな人たちに不満を抱いていながらも何もしない(スマホゲームで目痛くしているだけで東京にも行かない)自分のクソさも自覚している、ということだと思う。

 

このような心理風景を持つみのりが最も感情的な反応を見せるのが父親だ。その心模様は、さなえおばちゃんの言う「いつまでお父さんを追いかけるの?」という問いに収斂されている。自分の人生のクソさを父親に転嫁するのをそろそろやめなさい、とさなえおばちゃんは言っている。

ここからは私の邪推だが、みのりはお父さんとの楽しい思い出も覚えている(筑前煮作った後のさなえおばちゃんとのやりとりでは強硬に覚えていないと主張しているが)。ただそれ以上に、お母さんが死んだ後に酒乱となって、多分虐待めいたことも働いてしまった父親への恨みが根強い。それがみのりの人間性のほぼ全てを形づくっている。みのりの客観能力の高さは、母親が死ぬまで優しかった父親が死後豹変し自分に危害を加えるようになったことに伴い、その原因を推し量り、また父親の激情を避けるために自分の行いを反省する過程で半ば強制的に身に着けざるを得なかったものであろう。

相対的に整った外見を手に入れてしまった不幸も相俟って、みのりは自分に接近する人間関係を、その近寄ってくる当事者の損得勘定として捉えてしまう呪縛にかかっている。その処方箋が理恵子だが、最後の理恵子との会話に表れているように、理恵子がみのりに寄せる気持ちですらも、みのりは疑ってしまう。そういう自分も高い客観能力により否定的に評価してしまう苦しみをみのりは抱えている。

 

ここで話を観客としての私に移すと、みのりに感情移入しつつも、点描的に描かれるモブらも自分の心の中に住んでいることを知っている。

復讐の名の下に同じくいじめを執行する気持ち、合コンの相手方を外見で品評する気持ち、一人暮らしの豚箱で無為に飯を食い自慰する気持ち…。

その気持ちを抱えながら翻ってみると、みのりの「寂しさを抱えてそうな人、寄り添ってあげたくなる」という優しさと祈りが同居した言葉の意味がよくわかる。

ただ、そのような人は無闇に人のプライベートスペースに踏み込まないので、「良い人」がいてもお互いがそういうスタンスだと中々関係が進まないのは悩ましいところである(相手方のプライベートスペースを尊重し、加えて臆病さも持ち合わせると、結果孤独になってしまうのである)。

 

Filmarksとか見ると日常をただ見せられてるだけでつまらないとか、ストーリーが無いとかいう評価があるが、お前は一体何を見ていたんだ?というか、何かしか見ようとしていないお前の思考回路がショボいぞ、とおもう。

中途半端に映画見てる人に多いのだが、映画文法にこだわり過ぎて個別の作品の非定型的な良さを捨象してしまっている(まぁ人間誰しもそんなもんだ、と言われればそうなんですが、環境への柔軟な適応能力は生存戦略の一つですよね)。

恐らくそのような人は映画に娯楽を求める気持ちが強く、別にそれはそれで良いとは思うが、では彼らは日常生活ではどのように思考して生きているのか私自身はよくわからない。退屈な日常の慰めとして映画を見ているだけなのであれば、それは狭量な価値観だとは思う。人間の何たるかを知りたいのであれば自らの日常生活は格好の材料なのに、それを捨てるのは勿体無くて私には出来ない。

結局日常の退屈さを嫌う映画人たちは、女の子らしさ、若さ等、みのりを型に嵌めようとするクソどもと同じレベルだと思うのだが、そういう彼らに言及するときには、クソどもを嫌う自らのクソさに辟易としてクソさを強く指摘できない客観能力に苦しめられる(いやお前が言うなよ、と自分に突っ込む)ことになり結局何も言えなくなるのが一つの帰結である。

なので、この映画を見て改めて現実辛いなとなるのは、自分はクソとは違うと思いつつ、自分もクソから抜け出す程の働きはしていないのでクソのままでいるしかなく、結局クソにまみれて生きていくしかないけれども、当のクソたちは私のこの葛藤を全く理解しないところにある。

 

 

そんな寸劇だらけのクソみたいな世界を生きる一つの解決策として、心のうちの鬱憤を芸術として昇華するのが効果的ではないのかと素人ながらに思ってはいたが、二ノ宮監督はまだまだ苦しんでそうな感じがするので、救いがないよなとは思う。そんな状況でも生きていかねばならぬのだが。高校の倫理の授業で習った、カントの「すべての理性的存在者は、自分や他人を単に手段として扱ってはならず、 つねに同時に目的自体として扱わねばならない」という言葉は、貫徹されていないがために現代まで残った金言なのだと思う。

 

話を映画に戻す。みのりの葛藤は、最後のシーンがその着地点を表している。

公園で理恵子に泣きながら世間と自分のクソさを吐露するみのりは、帰り道にタバコをほんの数口吸って、飛び降りるように道を降り(予告編にもこのシーンがあり、身の投げ方からある種の自殺として撮影されているように感じられて良い)、今まで見なかった海を眺めに行く。頻繁にシーンとして挟まれる歩行は、その最中に巡らされる思考と同様に直線的(これは物理的というよりも目的地に向かってという意味。道は曲がりくねってるからね。曲がり角のシーン多いように)だが、方向が定まらない波の動きを、今まで思考の友としてきたタバコを消してまで、この時みのりは見たいと思ってしまったのだ。

結局その思考はチャラ男の出現によって邪魔されてしまうのだが。

ただ、理恵子との会話の反省もあって、やはりクソをクソと思ってもいけないと思い、カラオケのレパートリーを聴くことで歩み寄りを見せるみのりだが、結局チャラ男は「え?なんでも歌うよ~」と薄っぺらで深堀りできる見込み無く(チャラ男はこの時こだわりを見せていれば、みのりとカラオケに行けたと思う。)、怒りが募ったみのりは普段物理的に危害を加えるようなことは絶対に言わないのに(クソどもと同じになってしまうからね)、リモコンで頭かち割るとか言ってしまう。

すみませんでした、許してくれますか?は、その感情の振れ幅の反動で、ダウンサイドに振れた結果なので、やはりこちらも普段みのりが言わないことなのだった。

「映画らしさ」を排除してきたこの映画も、さすがに最後のシーンはみのり単独の顔アップで映画らしい画角を採用するが、「使うならここだろう!」という感じですよね。映画文法に慣れ切った方々には物足りないのだろうが、現実ってそんなものではないと思いますよ。映画らしさからの逸脱を責めるというのは、結局は映画を娯楽として消費する心持の表明ではないのか。そうだとすれば、それは映画の持つ魅力の一つであることは確かだが、あくまでも複数ある魅力の一つでしかないので、娯楽以外の側面を下に見るのは映画(とそれを作る人)への侮辱ではないか。

 

みのりの部屋には数多くの本が積まれており、これは彼女の心の内を覗かせる舞台装置だが、おそらくしばらくは、彼女の複雑な感情は3次元の世界には着地しないだろう。

理恵子と一緒にさっさと東京出て同じように深く世界を眺める人に出会った方が良い。

ただ、テレビの影響だろうかソフトなプロレスがコミュニケーションのメジャーな型になってしまっている、かつその傾向が先鋭化される東京に出ても、みのりの感じる窮屈さは消えない、むしろ肥大化する可能性が高い。が、救いの可能性も東京の方が大きいのだろうね。ノイズの処理負担が増えるので鎌倉よりもっと辛いかもしれないが。

 

 

かなり論旨が散漫になってしまったが、こういうストーリーに接する度に、町田康による小説「告白」を思い出す。河内十人切りをモチーフにしたこの小説は結構ボリュームがあって読み応えがあるが、主人公であり殺人犯である城戸熊太郎も、みのり同様に高い客観能力と周囲との差分に悩まされ、結果殺人を働いてしまった。協力者である弥五郎に最後、客観能力に起因する自分の行動と思考の乖離を口語で素直に伝えようとするが、弥五郎からは満足できるリアクションがなかった。結局彼も殺してしまった。そうせざるを得なかった悲しい境遇と感じる。

 

みのりの気持ちはかなり共感できるが、私自身、主演が萩原みのりさんでなかったら、ここまでみのりの気持ちを理解しようとしただろうか?私自身にみのりへの欲はなかったか?

まぁ多少はあるだろう(萩原さんのツイッターとインスタフォローしました)。が、萩原さんの魅力は、みのりらしさを具現化しているという意味でこの映画の一部を成しているが、仮に主役が別の人であっても、主人公xの生きづらさはその外見に起因するものだけではない(むしろその方が根が深い)ために、この映画のストーリー的な魅力は減じられないだろう(主人公が美人でなくても美人でないなりの苦悩が描かれるだろう)。

この点で、予告編にある今泉監督の「主人公を不機嫌にするという発明」「こういう映画をつくりたい。いつか必ず。そのときは萩原みのりと二ノ宮隆太郎をキャスティングして」というコメントは私にはかなり軽率という印象を持った。 彼の映画は価値観のヒエラルキーを前提にし過ぎる。

 

みのりが右手の人差し指と親指で挟むようにたばこを持って、口の左側でたばこを吸う仕草が好きだ。

もしかしたら背中の病気で腕の可動域に制限があるのかもしれない。口の真ん中または右側にたばこを持って行こうとすると、肩甲骨と背骨の間の筋肉が近接するが、恐らくみのりはその動きが辛くなる後遺症を負っている。

 

最後に、あまり技術的なことはわからないが長回しと手持ちの効果について。まず長回しについては、映しているものをより現実に接近させるための方法論だと思われる。演者の立場からすると、長回しの方が役がより自身に浸透するのではなかろうか(結果、観衆への説得力が高まる)。観衆の立場からすると、細かくシーンが切り刻まれるよりも長回しの方が、シームレスに続く現実と性質が近いため、映画が現実として擬態するのに役立つのではないか。

手持ちについては、人間の視線により近づけて、長回し同様に現実感を増すためだろう。 ちょっと揺れが強いところもあるが、私自身は幽霊のようにこの映画の各シーンに迷い込んだように観ていた。

 

駄文ですみません。でも「お嬢ちゃん」と、下高井戸シネマでやっていた「枝葉のこと」を観て、二ノ宮監督の作品は結構信頼するようになったので、ぜひ今後も映画を撮り続けてほしいと思うし、新作が出たら絶対に劇場に見に行くので頑張ってほしい。私はこの映画でまた踏ん張ろうと思いました。

あとDVD出してください。よろしくお願い致します。

 

 

 

 

以下、本作のシーンシークエンスをざっくりと(備忘録のため観てない人には何がなんだかわからないと思うが、すみません)。

 

海際の家族、ウェイ系集団、みのりと理恵子の歩行(比較的ゆっくり)

レイプ魔3人組、みのりの詰め寄り、鍛えた足から放たれるキック、みのりはライン教えてくれない

みのりが理恵子に途中でもういいよって何?と問いかけ、ごめん言い過ぎたとすぐさま自省する、関係揺り戻そうとバドミントンの勧誘(バックのオレンジの小ぶりな花がええよね)

レイプ魔3人組のダべり・寸劇

みのり理恵子のバドミントン、風強すぎるからシャトル吹き飛ばされるだろうよ

レイプ魔3人の泥酔後のダべり

おばあちゃんゴーヤチャンプル料理中、夕食時、みのりは何もやりたいことはないとのこと

おばあちゃんと女の子はパンツ履く履かない、若い子は云々の問答、父親のせいでクソになったと言うみのり、みのりは私めんどくさいねとまた自省、部屋にもどって若干物を考えた後ズボンを履くみのり

 

みのり歯を磨く

みのりバイトへ、和風ラーメンサーブした禿男は後に登場する幼児性向激ヤバ女が目撃したおじさんか?

神社3人組来店、真ん中のひねくれ男はわざと会計後にトイレに行き、退出時にはみのり気になるのに一瞥もくれない捻くれ具合ですわね

神社での美人3千万の寸劇

 

幼児性向激ヤバ女来店。イケメンBBQの話。みのり弱怒り。

いじめ男来店、外で和風ラーメン注文。 

(この時の激ヤバ女の「あの人怖くな~い?笑」がやばさ顕現してて凄い役者と思った。映画観てて個人の感情としてイライラしたのは「たみおのしあわせ」の大竹しのぶ以来だ)

閉店作業中のみのりと萌の会話

タバコは体に悪いからやめたほうがいい、麻薬だよ

みのりの名前褒められるが、どの面下げてそんな名前つけてんだよ、と悪態をつく

どんな人が好き?寂しそうな顔をしている人が好き、寄り添ってあげたくなるから

萌やん、7秒静止して私もそう思う!

 

筑前煮の材料を買って帰るみのり

帰宅してスマホいじったあとキッチンで料理

さなえおばさん来襲、父を追いかけていると言われて、ごめんと言いながらもブチ切れるみのり

おばあちゃん帰ってくる

(みのりが階段から降りてきておばあちゃんと相対するカメラワークだけちょっと「映画」感あるのではないかとおもう

夜タバコを吸って思い詰めるみのり、さなえおばちゃんにあそこまで怒り狂うことはなかったな私、確かにお父さんのことを追いかけているのであろう私

 

バイト先でまたヤバい女いる。

水曜休みの時にホテルビュッフェ行こうとの誘いにノータイムで嘘ついて回避するみのり

幼児性向激ヤバ女と萌ちゃんとの寸劇。この時みのりは(流れ的に自分に必ず演技を振られることがわかっていたと思うが)「えっ?」とかなり驚く

あんみつのおじさんによる大数の法則レクチャー

クソストーカ男にクソと言って謝る

公園でたばこ吸う。歩きたばこしているのはここだけなので相当イラついたのだろう

夜永井さんの店。ここの理恵子との会話は結構好き(ナシゴレンの説明読んだだけじゃん、韓国とかもあるじゃん)

帰るときみのりは振り返る、理恵子は勿論みのり帰るまで後ろ姿見る

そのまま寝るみのり

 

寝坊して昼に起きるみのり

クソ男三人衆

みのり理恵子とまた遊ぶ

クソ男のいじめ

みのり理恵子公園で語る(またバックにオレンジの小ぶりな花があって、ええよね)

 理恵子から「今度の水曜日カレー屋さん行こうよ、私は甘いの頼むけどみのりちゃんが頼む辛いのに挑戦してみる」とコメント

 

(おそらく「挑戦」というワードが繋がって)理恵子東京行くとの計画を思い出すみのり。自分が理恵子に依存してるという(そうだね)。

みのりは今が幸せと思ってるが、それに不満を持ち下らない呟きを続ける一般大衆と、それと同じレベルで生きていってしまっている自分自身がクソだと思っているのだろう。

 

みのり、理恵子に依存してるね、めんどくさいね私、と言って泣く

理恵子と別れる、理恵子は振り返るがみのりは振り返らない

タバコ吸う

橋から落ちる→クソどもから逃れたいきもち

海を見る

チャラ男に絡まれる

カラオケのレパートリー聞くも「なんでも歌うよ」という底の浅さにイラついているのだろう

冗談でリモコンで頭かち割るとか言う

ごめんなさい、許してくれますか。→クソどもと同じ相手に危害を与える言葉でからかってしまった後悔

立ち去るみのりを追う男

以下、この映画関連のインタビューで見る価値のある動画です。

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https://note.com/nemoasu_sound/n/nd27166767df7

 

 

*1:ただ、ストーカー男のセックス観として、行為後長期間親密さを維持する前提を置いているのだと思われ、その観点からはみのりのセックス観は信頼関係を前提としつつもストーカー男よりもドライな点で「ヤリマン」という誹りを受ける余地はあろう

*2:同じような良さのあるシーンとして、合コンに参加したおばさんのお店で理恵子に対するみのりの詰問で悪くなった空気を和ませようと、永井さんがゆでだこにサルサソースをかける絶品料理を作ると言い出した後、自分の飲み物を理恵子のコースターに置こうとして思わず「あっ、ごめんね」という所は普通の間違いっぽくて良い。みのりの小さい脳みそ発言も言わずもがな良い。