予感の手触り

感想の掃き溜め

廻るピングドラム

※ツイートまとめです。

輪るピングドラム最終話観た。予想としては「合理主義vs運命論(道徳主義)からの脱却」を描くのかな、と思ってたが、「運命論の肯定と他者承認」に落ち着いた。やっぱり新しいパラダイムをもたらすのは難しいし、(運命論に弊害があるにしても)これで十分なのかもしれない。

さて、メッセージとしては非常に簡明(しかしそれゆえに根本的・基礎的)だが、その表現方法が抜群に優れているのがこのアニメの特色の一つだ。途中までよくわからなかったけど、「罪(=呪い)」と「罰」が擬人化されたり、具体的なモノに置き換えられて描写されている。

例えばそれは眞悧であったり(95年代に起きた事件の「呪い」)、ガラスの破片であったり(主に冠葉が甘受する「罰」)、登場人物が流す、KIGAマークの血(「呪い」に囚われ、それが自分の体を構成している=内面化されている)であったりする。こういう象徴的な描写がほとんど。

なので、より意識的に作品のメッセージを掴み取りたい見る側としては、このような象徴表現を現実の表現・事実に「翻訳」する作業が必要になる。しかし、たとえそのレベルに達しなくても、イメージとして「何となく言いたいことはわかる」という効果があるのが、この表現のメリットであるように思う。

さて、総論はこの程度にして、各論、すなわち24話の話に移ろう。ここで一番重要(かつ作品の根幹)は、「運命を受け入れた上で」「他者の罰を引き受けること」、そして「それが連鎖すること」だろう。たとえば、最終話まで冠葉が高倉家の「呪い」を一身に引き受け、昌馬は現実を直視していない。

口では「高倉家の呪いは僕が引き受ける」と言いつつも、昌馬は本心では「呪い」から逃げるだけで、「罪」を引き受ける(give)というよりは、「誰か引き受けてほしい」と願う(take)のみであった。陽毬が出ていくときに2号がバームクーヘンを3号に勧めるも断られるシーンが象徴。

そんな昌馬に気づきを与えたのが、陽毬である。陽毬自身も途中まで、冠葉が「罪」を全て背負っているのに気付かなかったが、その後は「冠ちゃんを取り戻す」ことに尽力する。24話では、ガラスの破片に模した「罰」を受け、冠葉の「罪」を分かち合う。 Ow.ly - image uploaded by @quesaisje__

そこでようやく昌馬も「罪」を引き受けること、その前提として、かつて冠葉に運命の赤い果実を与えられたことに思い至る。そうして昌馬も「冠葉の罪を引き受ける」覚悟ができた。それは「高倉家の呪い」を正面から直視することだ。 [ http://ow.ly/i/obEj ]

陽毬は、「運命を受け入れ」、「かつて自分の罰を引き受けてくれた」「冠葉の罰を引き受ける」ことを決意した昌馬の命(?)が「ピングドラム」であるという。これがこの時代の、何らかの事件・思想によって何者にもなれない時代に生まれた僕らの、「生存戦略」なのだ。

一見するとこれは単なる「自己犠牲」と見られがちだが、僕はちょっと違うと思う。「自己犠牲」するのはあくまでも「自分の利益<他者の利益」となった場合に限られる。決して、自分の利益が優越するときにさえ「自己犠牲」することではない。そんなことしたら皆不幸になってしまう。

おそらくそのような思考があって、昌馬は苹果が「罰を受ける」ことを拒否して、自分が蠍の炎に焼かれることを選択したのだ。
Ow.ly - image uploaded by @quesaisje__  「高倉家の呪い」を受けるのはあくまでも「高倉家の人間」で、(被害者ではあるが他人である)苹果ではない。

こうして罰を分かち合った昌馬は、冠葉と共に「消滅し」、運命の乗換えが行われた。新たな世界では、陽毬は最早二人の兄のことを(意識的には)覚えていないが、額にははっきりと痕跡が残っている。 http://ow.ly/i/obG3


幼少期に陽毬を助けようと父が(冠葉を守る体で)ガラス片で傷を負ったことに対応して、そこに冠葉と陽毬の繋がりが残されていることが感じられる。そして、その冠葉の「罪」を引き受けた形で、昌馬との繋がりも失われていないことが象徴的に描かれている。 http://ow.ly/i/obGz

うむ。細部まで繊細な気遣いを以て描かれたことがわかるピングドラムは間違いなく傑作。このアニメを見て、何らかの教訓を得て日常生活に活かすことができる人が増えるとともに、「作品の分析・批評から大事なことを学ぶ楽しさ」を理解する人(アニメを過小評価しない人)が増えることを期待します。

あ、書き忘れたけど、陽毬が「冠ちゃん、戻っておいで」と罰を分かち合おうとするシーンは、OPの「少年よ我に帰れ」とリンクする。[ http://ow.ly/88yEs]  サブタイトルが"boys,come back to me."。複数形であることに注意(昌馬も意識されている)。

振り返って考えてみると、最終話に至るまでやたらと陽毬のデコが強調されてたのは、最後の額の傷(罰を引き受けた証)を際立たせる布石だったんだなあ。ほんと抜け目ないアニメだ.