予感の手触り

感想の掃き溜め

プロジェクターの設置にかかる備忘録

我が家ではホームシアターを導入している。
コロナウイルスが猛威を振るう昨今、映画館にうかうか行くこともできない状況だが、パソコンやiPhoneでチマチマ映画を見るのも何となく物足りない。
そこでおすすめなのがホームシアターということになるが、いろいろ調べても、特にプロジェクターの設置についてあまりインターネット界隈に有用な情報が無いようだったので、私の事例を参考までに共有するがこの記事の目的だ。

長文になりそうな予感がするので、ここでページを分けておこう。

続きを読む

きみの鳥はうたえる

www.amazon.co.jp

 

www.youtube.com

https://twitter.com/kiminotori 

 

2018の夏に好きになって劇場で2回見て、その後発売されたBlu-rayを3-4回見ている。

「お嬢ちゃん」の記事で先に書いてしまったが、本作は2018年最高の映画だと思っている。その後記事の下書きまで書いて結局公開しないままずるずると2020年も半分を過ぎてしまったのだが...。

なかなかこの作品について語る機会を失ってしまっていたが、最近Amazon Primeで本作が公開され、さらに少し前に星野源さんのPV監督を三宅さんが務めたということで、これを逃すと暫く記事を仕上げる機会はないと直感、こうして完成させるに至ったわけである(といっても、まだ書き始めなのでここからの自分を信じての発言です)。

www.youtube.com

 

知り合いにはひたすら勧めているのだけれど、「めちゃめちゃええよ!」と語彙力ゼロの紹介しかできていなかったので、今まで先延ばしにしていたええところの言語化をしてみます。

続きを読む

サカナクション山口一郎さんのInsta liveを見ての雑感

サカナクションの山口一郎さんがInsta liveを結構やっておられて、ここ3か月は強制在宅勤務でPCの前にずっといるので時間が合えば見るようにしている。
www.instagram.com


昨日6/6(土)も23時ころからliveをやっておられて私は24時ちょっと前から見始めたのだが、結局3時頃?までやっていたのではなかろうか。
前半は21時からYoutubeでやっていたライブ配信の解説で、そのパートはあまり見れなかったのだけれども、24時くらいからは視聴者(一般人です)とつないで5分間の質疑応答をするというものであった。
そこでなされた一つの質問を取り巻く視聴者の反応に思うところがあったので記しておくことにする。
(どちらかというと感傷に近いので「雑感」カテゴリを設定して、そのような心持をごちゃまぜにぶち込んでおくことにした。)

続きを読む

お嬢ちゃん

www.youtube.com

http://ojo-chan.com/

 

2018年は「きみの鳥はうたえる」が最高の映画だったが、2019年は「お嬢ちゃん」だと思う。12/30の渋谷アップリンクを最後に、既に4回観ているくらいだ。

登場人物の演技が結構繊細で、毎回見るたびに表情だったり身振りだったりの表現力の深さに気づくので、複数回見ても飽きない映画でした。

以下ネタバレ(というより本編そのもの)を含むので頁を変えます。自分のために、かつ映画見ていることを前提に書いているので、かなり端折った表現になっている点はご了承下さい。

続きを読む

聖なるもの

 

「聖なるもの」、結局3回観てしまうほどハマった。
初回は(たしか)5/10ポレポレ東中野で。「花に嵐」が気になりつつ結局見れなかったことを後悔していたので、「聖なるもの」は絶対みようと思っていたのに、ポレポレ東中野での上映期間が翌日5/11で終了と気づくまでダラダラしてしまっていた。
最終日5/11は舞台挨拶があるとのことで、混雑する中で見るのが嫌だったので前日の5/10に観た。

観終わった後はとにかく写真が撮りたくなった。幾原監督がコメントを寄せているけれども、「『何か作ろう、きっと僕にも何かが作れる』、そう思わせてくれる。」、まさにそんな気持ちになってしまった。
(映画の内容と全然関係ないけど、おそらく同じ回に小川さんが来ていた。フード被ってマスクしてたので厳重装備だなあと思った。)

鑑賞後は相当やられてしまったので、翌日の舞台挨拶付き上映にも参加。
挨拶はまあ普通だった。(そういえば司会の人が、南さんの本名で呼んでしまうミスをしていて、岩切監督が少し狼狽えていたのが面白かった。)

その後もまだ自分の中でくすぶるものがあったので、先日の熱海国際映画祭の上映にも行ってみた。
「聖なるもの」は計3回観たことになる。
(これも映画の内容と全然関係ないけど、上映後に監督への質問とかしていた映画祭関係者は、仕切りや質問の質が低すぎて唖然とした。小川「先輩」の間違いはあり得ないと思います。)

みんなはこの映画どうやって読んだのだろう、と思ってFilmarksとか見てみたが、どれも感想レベルのもので参考になるものがあまりなかったので、自分で書いてみようということで今こうして書いている。前置きが長いね。

以下ネタバレ含みますので、頁を変えます。

続きを読む

サイ・トゥオンブリーの写真 変奏のリリシズム

諸事情あってもっと気合い入れて写真に向き合おうという気持ちになっているので、観てきた展示や制作メモをここにまとめて行こう。

今回は@DIC美術館の掲題展示


サイ・トゥオンブリーのことは申し訳ないけど全く存じ上げなくて、事前に調べてもいかなかったのだけど、展示の一部に作品があったので助かった。
単純な印象で言えば幼児の落書きみたいな作品だ
サイ・トゥオンブリー 作品


この展示では彼の撮影した50点くらいの写真が取り上げられているが、大まかに分けると
 (1) 日常を取り巻くものをクロースアップで撮ったもの
 (2) 自然をストレートに撮ったもの
 (3) (1)と(2)の中間?

(1)は、例えばパン、レタス、ズッキーニ、ぬいぐるみ、椅子、扉、柱、筆、布、彫刻、テーブルの脚、自分の作品を対象とする。クロースアップ具合は、いわゆるよくある「日常で見てるものがよく見ると「そういう形してるのね!」」というところまで寄るのではなく、そのモノだということが認識できるレベル(ブロースフェルトまで寄らない)
カール・ブロースフェルト

ブレ・オフピンの写真が目立つ。ただし対象はそれとわかるレベルで。

(2)は、森、林、雲、砂場+日よけ傘を、特にひねりなくそのまま写したもの

(3)は、分類がちょっと難しいんだけど、とりあえず上二つの中間かな?たとえばアトリエ(彼にとってなじみのある場所)を映した写真なんかは、基本的にはストレートに撮ってるんだけど、細い柱みたいなものを前ボケで入れ込んでいたりするし、部屋(彼の部屋かはわかないのでなじみのある空間かは不明)は手前にドア、壁も含めて映している。

(1)クロースアップによって日常の中に新たなイメージを見つける、そういう新鮮な視点で世界を見つめることは幼児の落書き的な作品と共通するものがある。それでも視点が寄り過ぎないのは日常のものとの距離感がまだ近い(日常から大きく離れていない)ということだろう。シュールレアリスム的表現は、日常と全く異なった別世界を見せるものが多いが、彼の写真はそこまで現実から足を離していない。
ブレ・オフピンを使っているものの、対象が同定できるレベルというのも同じ価値観に基づくものと思われる。

(2)の自然を割とストレートに撮影している写真、そして幼児の落書き的な作品を考え併せると、彼は自然状態への憧れを持っていたのかもしれない。しかしながら(1)日常の様々なものもある種モノとして自然にそこに存在しているのに、それをストレートに撮らなかったのはなぜなんだろうね?

(3)部屋の中を撮影した写真に顕著なのは、その部屋だけでなく他の空間との繋がりを意識させるような撮り方だ。上に書いた、壁やドアを入れたり、布・カーテン越しの部屋だったり、「こちら」と「あちら」が区別されている、でもつながっていることを意識させる撮り方ですね。でも「あちら」は全く手の届かない場所としてではなく、ドアやカーテンをくぐれば、するりと簡単に移動できるような印象を受ける。「あちら」と「こちら」は分断されているのではなく、地続きの世界として映されている。

彼はよりピュアなままの世界に行きたかったんだけど、日常生活では目を凝らして凝らして、ある程度意識しないとそっちに行けなかったのかもね。そしてそっちの世界に比較的行きやすかったのが作品制作であり、馴染の深いアトリエだったりしたんだろう。

(3)で映されている対象は部屋なんだけど、それが彼の家であったり、馴染の深い空間だったりするともっとわかりやすいんだけどね。実際はどうかわからんね。

荒木経惟「今年」

今年から平間さんのモノクロ写真ワークショップに参加していて、自分を憑依させた写真を撮るべく邁進中なんだけど、そのような写真をとるにあたって先人の作品のインプットが決定的に欠けているので、ここ最近は近所の美術館内の図書館(無料)で写真集をしこしこ見る休日だ。
良い意味でも悪い意味でも心にふわりと抑揚が出てきたときは感想をノートに書きなぐっているのだけど、アーカイブ性を重視してここに転記する(気が向けば追記、気が向けばね)。
では1つめ。


荒木経惟 「今年」

妻の死。他の女性でまぎらわそうとするも、寂しさは消えず空、雲の写真が多い。
雲は天に昇った妻の象徴。電線で再度手に取ろうとするが、それは失敗する。
空に露出を合わせてる(気持ちが向かっている)ので、電柱など(現実のもの)は黒潰れしてしまう。



■浅田政志 「浅田家」

浅田家

浅田家

危ない。泣きそうになった。やはり家族の絆的モチーフは、自分が持っていなくて、欲しいと思っているモノなので、現実に存在していることを見せられると希望か?希望を持っていいのか?しかし無理では?という考えが浮かんできてしまう。
一回家族写真撮るしかないのか…。
自分は親に愛されていない自意識、だから小さな子供、自由に生きていた頃に戻りたいという気持ちで、子供の写真が多いのか。よくわからない。
ただ、こんなキレイな写真は所詮虚構だろうという疑いはある。


■石内 都 「1・9・4・7」

自分と同じ40歳の女性の手・足を撮るシリーズ。対象が手・足に限定されているのは、末端だから、とのこと。
その意味はたぶん、世界と触れ合う頻度が最も多い、つまり、外界と一番関係を築いた身体部位、ということだと思う。
見ていて、視覚は触覚だということを(また)思った。
皺ひとつひとつが眼を通して手に感じられた。
なぜか、知らない人の肌に触れているようで、気持ち悪いと思った。
やはり僕は、自分の心を許した人しか関係を持ちたくない。
それは臆病ということだろう。


■伊島薫「Black and White photographs]

Kaoru Ijima―Black and White Photographs (EDGE TO EDGE)

Kaoru Ijima―Black and White Photographs (EDGE TO EDGE)

ファッション写真。しかし顔のみの写真が多い。全体にフレアが生じたようにボケ、ピントは顔のみに合っているため、顔以外の部分は背景のように存在が薄くなる。
顔さえあればヒトに見える。逆に、顔が隠されるとモノとなる。
また中性的なモデルが多く、性別も(顔からだけだと)よくわからない。
では何が撮りたいのか?よくわからんがGenderとかそういうものを剥ぎ取った時の美?そうすると形?なのでモノクロなのか…。


■伊島薫「Color photographs」

Kaoru Ijima―Color Photographs (EDGE TO EDGE)

Kaoru Ijima―Color Photographs (EDGE TO EDGE)

ファッション写真は「こう撮りたい」という作為を隠さないのであまり好きではない、ということを再認識した。
慎ましくない。(でも確かにキレイな写真はキレイだし、格好いいものは格好いい。)
それは私が、自分にはそうなれないと気づきたくないからか?


今森光彦里山の道」

里山の道

里山の道

しょうもない写真集。こういう風景写真で「キレイでしょ?」みたいな写真は大嫌いだ。自然の美しさを、さも自分の力量のように見せる生き方がださい。
あとやたら解説つけて、言葉で武装するもの、写真だけだと勝負できないみたいで、嫌いだ。
ただ、もやのかかった森とか、そういう風景自体は好き。それは(過去の)山で目覚めたときの光景なのか、吹雪の時の視界なのかはよくわからないけれども。


石川直樹「国東半島」

国東半島

国東半島

写真を撮るのはあくまで手段であって、目的ではない。
まずもって自分が何を思うか、考えるかが先に来て、それを表現するツールとして写真が使われるに過ぎない。
石川さんは世俗の暮らし・文化とか、人間の営みが混ざるポイントが好きで、それを表現するものとして写真を用いることがよくわかる。
なので、身に着けるべきは写真の技術ではなく、自分の捉え方だと改めて思う。


■井上佐由紀「Screen」

Screen

Screen

この人は、今ここ以外のどこかに行きたい、自分と寄り添ってくれる第三者が欲しい人だ。
水面、光と影、二つ並びのpotがそれを現している。
でも、そういうセンチメント、気分はとても子供っぽくはないか?ヒッピーではないけれど、世界はgive and take、まずは外界を愛し、受け入れよ(→お前もな)。


尾仲浩二

尾仲浩二の写真は全般的に嫌悪感を抱く。その理由はおそらく、引きの写真が多いことから推察すると、旅で回った土地どちの個性を見ようとするポーズは見せつつも、その実、なんだか空虚な自分の心にしか関心がないような印象を与えるからだ。
旅先のさびれた食堂で酒を飲むショットも、酩酊状態になることで現実を見なくてよくなる、またその土地の人と関わった気になっている、という錯覚を感じさせる。
巻末のコメントも、自分の卑小さを自覚しつつも、それで良しとする甘さが透けて見えるようで浅ましい。
しかしそれは、自分が自分に対して持つ認識をと重なって、だからこそ尾仲の写真が嫌いなような気がする。
俺ってこんなつまらん写真撮ってるのか…と思って結構へこんだ。