予感の手触り

感想の掃き溜め

岬の兄妹

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兄の友人が「妹を売春させるなんて人間ではない」というような趣旨の罵声を浴びせるシーンがあるが、彼は同時に一部の観客でもあり兄から「ではそうせざるを得ない我々は最早人間として生きることは許されないということか?」と問われた場合にどう答えるかを考えておかねばこの映画を見た意味がない。
生活保護障碍者保険を受ければよいのではないかと応答して兄妹(特に兄)側に論点を移し自らの回答責任を回避することは一応可能ではある。実際は生活保護障碍者保険を受けるまでかなり手間がかかったり行政サイドの協力も得られなかったりで安易に福祉に助けられるものではないのだが、まあ福祉関連のシーンを無くして兄妹の状況にフォーカスさせる監督の意図もあるだろう。ただ、兄は単に歩行に支障を来す身体的障害を有するだけではなく、それによって回避できない貧困、それに起因する判断力の低下によって苦しめられている(貧すれば鈍す)。従って、兄の判断力不足を指摘すること自体が、この映画の描く貧困を含む窮地に対する想像力の欠如を孕んでいるように思われる。
少し横道にそれてしまったが、上の回答、すなわち「生活保護障碍者保険を受ければよいではないか」と反論する人の心中は「これは私が回答するべき問題ではない」ということであって、いずれにせよ映画が提示する問題に直接答えを持つ(少なくとも回答しようともがく)姿勢とは真逆であるとは言えるだろう。脚本上の装置に対する批判は、必ずしも映画が提示する問題の適切な回答とはならない。

この回答について考える前に、一旦本作中の兄妹について見てみる。
兄は、後半(と言ってもほぼ映画の終わりだが)夢の中のシーン描かれるように、少なくともその時点まで自分を苦しめる傷から解放されたいと思っている。足の傷、それによる就労困難、更にそれによる貧困もそうだし、自閉症を抱える妹も「傷」であろう。それらの「傷」は究極的には自分のコントロールできない外部要因として認識されている。その時の兄の気持ちは「なぜ自分だけこんなに苦しめられなければいけないのか」であろう。そこに、「傷」の一員でもある妹が、「傷」から解放され得る金銭を獲得する方法を得た。今まで自分を苦しめてきた妹から、苦しみのリカバーを図る。それぐらいは許されても良いと兄は考えたはずである。

ここで一旦妹に目を移す。売春を始めた(始めさせられた)妹は、兄の想像を超えて前向きに性交を重ねる姿を見せる。経済的に無価値であった自身が、兄の友人曰く違法な領域に踏み入ることで兄以上の経済的価値を得た。世界がここで裏返った。更に小人症の男性との逢瀬(と言ってよいと思う)によって、他者と傷を埋めあう幸福感も得る。
ここからは私の勝手な解釈だが、ぬいぐるみに異常な執着を見せる妹は、堕胎後に雀の死骸を手に口周りをファサファサする。命がなくてもふわふわなぬいぐるみ、命がなくてもふわふわな雀の死骸。でもそれはかつて命があったものであるのでぬいぐるみと位相は違うじゃん?ここに私は、妹は堕胎の意味、すなわちかつてあった命を喪失したことを理解していたのではないかとの推測を得る。

兄に視線を戻す。兄にとって売春は、傷を回復させるためにやむを得ないもの、それくらいは報われて良いと考えるものであった。しかしながら妹は売春によって人間性を回復していく。堕胎の費用負担7-8万円は、映画の中で描かれるそれぞれ1万円を支払った男性客の数と概ね一致する(ヤンキーとデブ男、老人、チェンジ男、ダックスフントのように髪を残す禿男、小人症の男×2回、いじめられっ子)。因みに兄の行動を批判する一つのパターンとして避妊しとけよ、と言うものがあるが、上記の通り兄の判断力の欠如は彼だけに帰責させられるものでもないし、もし避妊をさせようとしても1時間1万円の障碍者の女とヤるときに律儀にゴムつける民度をもった客があのエリアでいるのか?という想像力を持つべきだろう。
少し論旨がずれたが売春からの堕胎によって経済性(兄の傷)は回復されないが妹の傷は回復する。
だから兄は足の傷が完治することを夢見た、が、それは儚くも失敗した。

なので兄は、少なくとも経済性だけは毀損されないようにしようと思った。コンクリートブロックは妹の頭ではなく腹を狙っているので、目的は堕胎である。しかし結局コンクリートブロックを振り下ろすことはできなかった。泣きじゃくる兄に、自分の大切な貯金箱を妹は差し出す。それは一旦、生活費に困窮した兄によって壊され傷着いた貯金箱だったが、その後の売春で人間性と経済性をともに腹のうちに貯めこんでいる。その貯金箱を妹に差し出されたことにより、兄は経済性だけでなく人間性(の回復)も妹からモチーフとして受け取ることになる。

兄は果たして造船所の職、すなわち経済性の傷を回復する。従い売春をする経済的な必要性はなくなっているのだが、そうなると妹の人間性を失うこととなる。徘徊する妹を探し当てた岬の先端、着信は誰からか、どのような内容かはわからない。
売春客からの着信で堕胎のリスクを抱えつつ、妹の人間性の回復だけを祈って兄は再度売春を斡旋するというシナリオもあり得るし、かなりリモートだが小人症の男性から妹と生活を共にしたいと希望を伝えられるシナリオもありうる。だって彼は最後に堕胎するかどうかをかなり気にしていたし、だいいち彼と妹は傷を共有し埋めあったのだから。

兄と妹は岬において掃き溜めのようなところで生活していた。兄妹自身が糞尿のようであった。でも同時に花火のように極めて短時間煌いて、完成したと同時に消え入るようでもあった。
大多数の人は冒頭の質問の回答から逃げるが如く、そのような人から目を背ける。自分の属する極めて限定的なコミュニティ内では「私は周囲の人への配慮ができる」「空気が読める」ような顔をして。
でもそれは本当の意味の他者の苦痛へのまなざしではない。(経済性は伴うかもしれないけれども)まずは、本当の意味で彼らの人間性を認めることが出発点なのではないかと思う。

ディアドクター

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本物と偽物、嘘と本当の境界線・分水嶺の話。
まずは本作の土俵の中で話を進めると、①免許の有無(「医者」としての外形的基準)、②緊急対応のスキル(緊急時の「医者」としての定性的基準)、③他者の欲望を満たす意思・スキル(通常時の「医者」としての定性的基準)によって象限を分け、自分はどれを満たせば「本物」の「医者」と考えるだろうかと思考を巡らす。
看護師の大竹は①医師免許はないので気胸に苦しむ村民の胸に針を刺せないものの、②緊急医療の現場にいたことから病状を的確に見抜き、③平時にも村民からの信頼は厚い。
研修医の相馬は①医師免許を持っており、②緊急対応をする知識は持っているはずである(本作では明確に描かれないものの、冒頭、おじいさんが喉に食べ物を詰まらせた際に気管への挿管を行おうとするシーンがあり、伊野は主導権を相馬に握られている。ただ、伊野による背部圧迫により解決できる症状というのが憎らしい設定ではある)。③また伊野と「本物」の「医者」について話したシーンの通り、相馬は患者に感謝されることが医者の本分であると考えるが、まだ研修初期のため村民と心から打ち解けるには至っていないのではないか。
最後に伊野は、①医師免許は持っておらず、②緊急対応のスキルはないものの、③村民の希望を汲み取り、それに寄り添う意思の強さは他の二人と比べるべくもない。③について、伊野の特殊さを認識しておくために具体的な場面に触れてみると、冒頭おじいさんが喉つまりで一瞬呼吸が止まった際、特に回復を願わない親族の気持ちを察しつつ(恐らく介護負担の一番大きい奥さんがエプロンを握る手を想起する)、偶然を装って喉つまりを解消する。鳥飼さんの腹部を診察した際には異変に気付きつつも村民の前で異常を明らかにすることはせず、検診用のライトをわざと隠して忘れるという周到さを見せて、鳥飼さんとの会話の機会を作る。
上記をまとめると、以下のようになる。
看護師: ①× ②〇 ③〇
研修医: ①〇 ②〇 ③×
伊野:  ①× ②× ③〇
(0/1の議論ではないが)上を見ると一番条件を満たさない伊野が、村民から最も信頼されている状況に伊野の特殊性が見て取れる。

描く職業として「医者」を用意すると、本作で提示されるシーンだけに依拠しても上記の通り①~③の基準が設定でき、本物と偽物の議論がしやすい。が、あくまでもそれは観客が理解しやすいように選ばれたモチーフ以上の意味を持たないだろう(例えば、弁護士を採用しても同様の議論はできると思われるが一般人からするといまいちわかりにくいために観客の思考を誘発できない)。

本物と偽物の境界線を分ける基準が多いことが「医者」を選んだ理由だとすると、本物と偽物の境界線という主題を「医者」以外に展開することも可能なはずである。それは例えば観客自身の職業でも良い。
その場合には①外形的な免許の有無は機能しないので除外し、②スキル・能力としての適性と③倫理としての適性について考えれば良いだろう。


話は変わるが、松重豊が演じた警察官が研修医に語った「あなたたちも伊野が医者のふりをする片棒を担いだわけだ」という台詞に注目したい。これは、本物と偽物の境界線は、その人と接する他者の判断によって揺蕩う曖昧さを持っていることを示している。
伊野は、①②は満たさなかったが、恐らく神和田村で最も強く求められた③の適性に極めて優れた人物だった。村人は、伊野の医者としての不自然さは感じていたものの、「話し相手になってほしい」「何となく安心させてほしい」と言った欲望を高水準で満たしてくれる伊野の存在を欲していたため、彼に「医者」というラベルを貼って彼の存在を正当化していたように見える。このメカニズムが上手く働くように監督は僻地を舞台に選んだように思う。鳥飼さんの娘が務める東京だと、よりスキル重視の判断になり、本物と偽物の境界線がより明確に引かれることになる。
このように見てみると、本作は、曖昧さに触れた時の人間の心の動きについての映画だということがわかる。

伊野を完全な悪者にしなかったのも、観客の判断を迷わすための装置だろう。例えば、伊野が、高額な報酬を目当てに医者を騙り、村人の診療も片手間でやっているような作品だったとしよう。その場合、恐らく多くの観客は容易に「伊野は偽物」という結論を下せるだろう。
でも本作はそうなってはいない。伊野の偽物としての葛藤が描かれているからだ。
伊野は明確に自身を偽物と言う。それは法律上、医師免許を持っていないということだが、他方、患者が思い病気にかかっていれば夜遅くまで勉強を怠らない真面目さを持つ(免許を持つ研修医は勉強中に居眠りしているのに)。伊野は患者の希望に沿うように対応したいという強い意図があるために、スキル・能力に不足があっても村人から「医者」であるように祭り上げられてしまう。気胸の事例のように、偶然も相俟って自身の能力以上に「医者」としての役割期待が肥大化する。その乖離が伊野の「偽物」という自己認識に拍車をかける。
鳥飼さんの娘が現れた時も、一応ただの胃潰瘍という説明はするものの、娘はその嘘を見破れず胃潰瘍が「本物」になってしまう。娘が次帰省するのは1年後であるという。ステージ5のがん患者が死を迎えるには十分な時間と思われる。伊野の「嘘」が「本物」になってしまったために、顔の皺の数まで知っている村民が死ぬ。
伊野はその重みに耐えきれず、逃げるしかなかった。

このような伊野の行動を、外野から「そのような身の丈を超えた嘘をつくべきでない」と一刀両断するのは可能である。同じことは昔話でも聞いている。でも今、この社会でそのように素直に生きていられる人はとても少ないのではないかと思う。観客は自分の心にいる伊野の様な人格と向き合わねばならない(例えば、同じチームの人がたまたまやった仕事を上司に褒められた時に、それを自分の仕事だと言ってしまう人もいるのではないか。同じような例は他にもあるが、想像力を使って是非考えてみてほしい。)
心の中の伊野に思いを馳せる誠実な人程、「本物」と「偽物」の淡いをどのように判断するか迷うことになるだろう。本作は上記のような伊野の人物描写を挿入することによって、更に境界線を曖昧にして観客の判断を迷わせる。
更に最後のシーンで、とても軽妙・軽薄そうに鳥飼さんの前に現れる伊野の姿を描くことで、伊野を肯定的に評価しようとした観客に更に揺さぶりをかける徹底ぶりが感じられる。

人間の存在は明確に白黒、0/1で区別できるものではなく濃度勾配やグラデーションによって把握されるべきものである(と、少なくとも私は思っている)。本作は、本来的に未定義な存在に触れた時に、どのように心を働かせるかを問うている。
因みに私は主観主義かつ機能主義的に考えるので、想定される場に応じて他者が望む役割を果たすのであれば「本物」と考えて良いのではないかと思う。悲しくもあるが結局人は自分の思うようにしか他者を理解できないように感じられるので、その限りで自分の役割を果たしておけば存在意義は満たされているのではないか。

パレード

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公開当時に観てたところ、Paraviで配信しているのを発見し再見。

作中でも手を変え品を変え言及されるように、本当の自分、本当のあなた、本当のあの人はどのような人格かをどのように考えますか、と問う。
実存主義構造主義との間で死ぬ程議論がされているが、本作の登場人物でいえば、「マルチバースって知ってるか?」「真実なんて人それぞれ」「みんなが思う〇〇なんて存在しない」と諭す直樹自身が、最後に自分の凶行が露見したことで嗚咽する(「本当の自分」と「他の人から見た自分」との落差、およびそれに起因したコミュニティに属し続けられるかという不安によるものと思われる)のに対し、他の同居人は直樹に悩みを相談したり解決してもらったりしつつも、直樹の嗚咽には何ら関心がないという転倒の関係を見られるラストシーンは結構気持ちの良いものであった。
比喩的には、冒頭のシーンから部屋の中の柱がカットの中心にどしんと据えられ、同じリビングで会話する良介と琴美を明確に分断する。部屋の他のシーンでも登場人物は頻繁に柱によって分断される。他者の心なんて完全に理解することはできないということが視覚的にも表現される。
途中でサトルが「それって上辺だけの関係ってことね」と琴美に言うが、琴美はちょっとイラっとした表情をしながらもそれをやんわりと否定する。ウェットな構造主義だったり、ドライな実存主義が成り立つことは5人の関係の中でちゃんと描かれている。
「流石に犯罪はダメでは?」と疑問を持つ人もあるかもしれないが、それはあくまで映画の中の話であって、例えば「知り合いの彼女と浮気する」「都合のいい女に堕落して堕胎する」「夜な夜な趣味の悪い映像を見て心を落ち着かせている」「風俗で働いてたり不法侵入をしてたりする」というレベルであれば判断が異なってくることもある。直樹以外の登場人物をどこまで許容できるかを考えるのが本作の主眼だろう。

初見は大学生の時だったので「必要な範囲内で自分を開示し、自分の役割を全うする関係性で十分なのであればよくね?」と割と肯定的に評価していたが、今もって見てみると基本的に肯定的な評価は変わらないものの「やっぱり他のみんなはシェアルームしか出るしかないよね」と思う。「『本当』の自分」を選択的に呈示するひと時の関係性は、部屋を賃貸するように永久には維持できないように思われる。結婚したり子供ができたりすると自分の切り売りでは対処しきれないために、シェアルームのような関係性から卒業する必要があるだろう。

ラストシーンは様々解釈あると思うが、あのシェアルームでは各人が各人なりに役割を全うしようとしていたし、他の住民にもある程度の役割を果たすことを期待していた。各人が自らの役割を果たしている限りは、あのコミュニティは廻っていたが、皆の悩みを適切に解決してきたお兄ちゃん的な直樹が嗚咽することは彼の役割期待とは著しく異なっており、ラストシーンでは直樹だけが皆の共同幻想に与していなかった。
皆が自分の楽器を奏でて自分のパートを踊って「パレード」は賑やかに進んでいたのに、直樹だけがぽつんと外れてしまったことで他の住民は白けてしまった。
ウェットな構造主義的な関係性の中では(人によるけれども)シリアスな傷を全て呈示できるわけではなく、自分だけで引き受けなければならないことのみはやや評価が変わったポイントかな。

花束みたいな恋をした

(Filmarksに書いたものの移植)

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冒頭の再会シーンで解釈が方向づけられてしまっているのかもしれないが、これは失われたもの、失われつつあるものに関する映画だ。

冒頭からてんこ盛りのカルチュア~要素、またビール飲みながら長時間徒歩で帰るみたいな、いかにもな要素にちょっと身構えてしまったが、それは互いの感覚、というか互い個人そのものを交換したい、一体化したい麦と絹の精神の一要素であって、彼らにとってそれが今村夏子等々であっただけで、観客である我々は我々自身の片割れとなる(カルチュア~ではなく)文化を代入すればよい。

自分の好きなものを突き詰めるという性質によって引き寄せられた麦と絹であった。それはかなり美しい光景であって私自身も大学時代のロマンスになりきらない異性との思い出も(僅かな経験ながら)想起したりした。
鎌倉のシーンの冒頭、途中まで彩度が上げられた絵作りは実態以上に膨れ上がった当時の気分の高まりも想起せられた。その後麦がしらす丼を買いに消えてしまったことでその彩度高めのシーンも解除され現実に引き戻されてしまったが、それが麦と絹の未来とパラレルになってしまっていた。

結局は、冒頭のシーン通りに二人は別れを迎えてしまったわけで、その理由はどのように考えれば良いだろうか。映画に描かれた事情だけを見てみると、私自身は麦の気持ちも絹の気持ちもそれぞれわかる。
麦は、他ならぬ絹に「私山根君の絵好きだよ」と言われたことも影響してか、激安単価でイラストカットの請負をするも、大好きな絹との生活を維持するために就職、激務によって豊かな精神性を棄損されて単調な人間になってしまう(就職後の彼はもう「電車に揺られて」というような表現は使うまい)。絹と一緒に暮らす生活は本来多様であるべきではあるものの、ザ・「社会人」として型に嵌められざるを得なかった彼は「結婚」を起点とした「幸せな家庭」という幻想そのものを絹に押し付けてしまう。これらは全て生活の困窮から始まっているが、絹との生活を思うが故に「社会人」としての成功を目指してしまうという葛藤が麦の胸にはあった。
絹は絹で、大学時代から引き続き好きなものを消費する生活を続けている。律儀に簿記2級を取得して医院(歯医者?)の事務員になったのも定時上がりできるからだろう。だが「好きなことを仕事にする」ことの憧れ(これは憧れだったと思う)が捨てきれずいかにも怪しげなオダギリジョー社長の会社に飛び込んでしまう。やっていることはチケットのもぎりやライブハウスの清掃とかあまりクリエイティブには見えない仕事だった(もしかしたら画面外でやってるかもしれないが)。彼女は、学生時代にはあったが今は失われてしまった麦の精神性を想う。他方、(薄給に苦しみながらもイラストレーターとして作品を作っていた麦と異なり)絹自身は何かを生み出している描写はなかった。
このように見てみると、一見二人の別れの主因は外部環境、すなわち好きなものをそのまま好きとして生活できない経済構造にあるようにも見えるけれども、私はそうではなくて、作り手としての麦と、消費者としての絹の経験や精神の向き先が違ったことが本質的なのではないかと思うに至った。
麦は好きなことを仕事にしようとしたが挫折した苦い経験を持っているし、資本主義に取り込まれ「〇〇に目をかけられてるしCMの受注できれば金が入る」と創造性の欠片もない写真家の先輩の死も直接的に経験している。一方で絹は、自分の作ったものが社会に認められない経験をしておらず、あくまで一消費者として文化を嗜む(それ自体を否定しているわけではない。私もそうだから。)。彼女は、作りたいものが作れずにやむを得ず就職するという挫折を経験していないため、麦の精神性が失われたことに素朴に不満を抱いていった。しかし彼女自身は、イベント会社に転職したものの、結局謎解き自体は他の会社が作ったものだし、ライブハウスでは自分ではない誰かの演奏を聴いているのみである。
麦と絹は、それぞれ何かの原料にはなるが、麦はそのまま食材として利用できるものの、絹は紡がれていないとそれ単体では利用できない。
なお、麦がより経済条件の良い職についていたら、というような経済条件の改善によって二人の関係の改善を期待する気持ちもわかるにはわかるが、結局それは、薄給に苦しむ麦の苦しみを、画面に見えない第三者に転嫁する選択肢にすぎないのではなかろうか。それは結局、麦の会社でトラックを海に捨てたあの男性のような人の屍の上に、自分の「幸せな生活」を積み上げることにほかならないのではないかと思えてしまう。

クリエイターとしての挫折を経験するも(したからこそ?)「普通」に「幸せな家庭」の型に囚われてしまった麦と、あくまで一消費者であったから軽やかに文化を渡り歩けた絹、それぞれの気持ちがよくわかるのでこの映画を観ても結論としてどちらの生活が良いとは言い切れないところにこの映画の良さがある。冒頭でも触れたが、この映画の文化的要素はあくまでも麦と絹との共通項を点描しているだけであって、観客としてのわたしあなたの物語では適宜必要に応じて自分の文化的要素を代入して良い。そうするとこの映画は万人にとっての映画となる。

別れを決意しても尚、また別れてから再会しても尚、二人の考えることはほぼ同じで発言を交互にカット割りしても一人の人間のコメントとして成立してしまう程に思考が似通っている二人の共通性を描くシーンがにくい。そこまで同じである二人の生活も本質が異なっていればいとも簡単に瓦解してしまうのであった。(これは、二人の共通点が些末だということを意味しないだろう)

結婚式の後、別れ話をしていたジョナサンで、正に学生時代深夜まで話をしていた席で新たな恋が生成されている場面に接した麦と絹の思い、そしてこれから恋仲に発展するかもしれない若い男女のこれからを想像して泣いた。そこには重層的な時間があったが上手くいかなかった自分たち、うまくいきつつあるあの子たち、その後上手くいかないかもしれないあの子たち、そして、自分たちと違って「数%の例外」として成功するかもしれないあの子たちといった複数のシナリオが空間に漂っていたシュレディンガー的なシーンに泣いた。

個人的にカラオケシーンが良い映画は良いというジンクスがあるのだが本作も良かったですね(2つとも)。別れ間際に「一回くらいは浮気したでしょ?」と聞きつつ自分は答えない絹の真実に思いを馳せた。

写真のこと②:写真をはじめたときのこと

仕事のストレスが強くて心が弱っている。
一時期より大分楽になったがまだまだ辛く、さらに年明けくらいまではその状況が続きそうなので先行きが暗い。

人間性を失っている状態なので昔書いたものを振り返って健全な魂を回復しようとしていたところ、
別媒体で写真を本格的に始めた時くらいに書いた文章がまだ自分の気持ちとリンクしていることに気づき、少しだけ人間性を取り戻したので記録に残しておく。
前の「写真のこと①」では、次は人間と動物の関係について書こうと思っていると書いたけど、結構しんどい作業なのでそれは先延ばしすることにする。

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写真のこと①:ポートレート

写真を撮り続けている。
料理や映画・読書と並んで私の重要な一部を構成しているのだが、2014-2015年の1年間に写真家の平間至さんのワークショップに参加した以来、腰を据えて写真について考えることがなかった。
コロナ下で時間を持て余していることが直接の理由でもないのだが、今後死ぬまでの約50年間でずっと変わらない大事なものを結晶化しておくべきだろうという思いが沸き上がってきたので、
最近は映画の感想をつらつら書くことでその重要なものの衛星軌道上をくるりと廻っていって段々と中心に接近していければと、その引力に期待していた。
書いてみると、映画の感想を超えて、自分の価値観が徐々に明確化・構造化されたような感触を得たので(世界認識の解像度を高めるために映画を見ている面もあるので当然なのだが・・・)、
写真でも同じようにできるのでは、映画とは別の側面から中心に迫れるのではと思った。
写真に関することのうち、まずはポートレートについて書いてみたい。

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はちどり

2020/7/25(土)10:10~@ユーロスペースにて鑑賞。
泣いた。
素直に泣いた。のだが、30超えのおじさんが、主人公14歳の中学生女子である本作のどこで泣くのだ?という問いに対する答えを残しておくことが今後の自分にとっても良いような気がするので文章で書いておく。
完全にネタバレを含むので、一応ページを変えよう。

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